【戯言】つまるところ大団円か破滅しかないのでベクトルは存在し目的論的思考は必須か。
自身の最期の場面(死に際)を想像したら、2つのパターンが頭に浮かんだ。
すなわち、ハッピーエンドとバッドエンドだ。
「いい人生だったわ」と満足気に微笑んで昇天するか、「オレの人生なんだったんだ」と空しい溜息を漏らして事切れるか。
これ以外の場面を想像できない。
どちらでもないフラットな状態で死ぬことができると、これまで漠然と思っていたが、最近、やっぱ無理じゃね? と思いだした。
そんな悟りきった精神状態で最期を迎える自信がまったくない。
つまるところ、人生の終焉には大団円か破滅しかない。
どちらかの結末に、ベクトルは向かっている。
そして、時間は流れる。常に流れている。
僕という〈点P〉は、いっこうに現在地を移動していないと、僕は感じていた。
だって、良くも悪くも、僕はこれまで、なにも選択してこなかったし、なにも行動してこなかったのだから。
目の前に分岐した2つの道があって、どちらを行けばいいか分からないから、僕は歩かずにいた。
どちらの道も選ばずに、その場を動かずにいた。
そうすれば終局も近づかないのではないか、と錯覚していた。
違うんですね。
当たり前ですが。
僕の意思に関わらず、僕が生まれたときからベクトルは存在し、時間は一刻も止まってなどくれないのだから、僕は常に移動し続けていたのだ。
まるでベルトコンベアーに載せられた物体のように。
僕はただ流されていた。
「選択しない」ということが一種の選択だった、ということに気付くべきだったのかもしれない。
受動的に運ばれていった先が「ハッピーエンド」なら問題はないのだが、どうやら、なにやら、おそらく、そうではなさそう。
なんでやねん。
めんど臭いなー。
万人が自動的に幸福な死を迎えられるようにできとけや、世界。そう創っとけや、神。
と愚痴りたくなるが、愚痴っていても破滅は避けられない。
流された先に悲劇が待っているならば、必死に自分の足を動かして、違うルートに移るしかない。
主体的に動かねばならない。
つまり、選択しなければならない。
選ばなければならない。
置かれた場所で咲きなさい、とバアちゃんが偉そうに説教を垂れていた。
目的論は無限後退に陥るだけだから内在的に自足せよ、とジイちゃんが意味不明なことを言っていた。
高齢者は敬えと義務教育で教わったので老害どもの痴れ言を都合よく妄信してきたが、どうやら、なにやら、おそらく、それではダメっぽい。
ベクトルは主体的に選択しなければならない。
これでいいのだとヘラヘラ笑って動かずにいたら、いつの間にやら、「バッドエンド」へ向かうベクトルの流れに載ってしまう。
絶望的に面倒だが、大団円を迎えたいなら、しっかりとゴールを見定めて、そこに向かって自分の足で歩かねばならないらしい。
んで。
「ハッピーエンド」を指し示すベクトルだが、非常に長い。
僕の現在地から「ハッピーエンド」という終点が見えないほどに、長い。
本当にこのベクトルの先にそれがあるのか判然としない。
このベクトルが正しいベクトルなのか分からない。
だから、マイルストーンが必要だ。
「幸福な死」という終局的な大目標に繋がっているであろうと合理的に推察できる、小規模な「目的」。
それら小さな「目的」をひとつずつ達成していくことで、不安や虚無感に飲み込まれることなく、僕は自信をもって着実に一歩一歩を進めていける。
ってことで、僕、「目的」作るわ。
現況を悲観してるばかりじゃメンヘラになるだけだし、逆に肯定するばかりじゃバカボンのパパになるだけだ。
ある程度は現況に満足しつつ、高次の「目的」を設定し、そこに向かって努力します。
マッチョ思想や努力至上主義は嫌悪しているが、「ハッピーエンド」には、やっぱ、それらもある程度は必要っぽい。
どんな思想も全肯定や全否定はいけない。
何事も、極端はいけない。
結局、中庸が一番なのだ。
「幸福な死」に繋がる小さな「目的(目標)」の具体的内容については、また時間ができたらブログでまとめようと考えている。
はじめまして。ブログの更新いつも楽しみにしてます。
「幸福な死」自体を目的としたときの、具体的な小さな目標ってなんだろ。気になります。
「幸福な死」って結局「幸福な人生」であったかどうかの結果発表に過ぎないと思うのです。
とすると、「幸福な人生」を歩むための具体的な小さな目標を立てることになると思いますが、幸せになるための具体的行動、「小さな目標」どういうものなんでしょうね。
あさん、こんにちは。
生と死は表裏一体ですから、「幸福な死」と「幸福な人生」が同義であるとは僕も思っています。
それに至るまでの「小さな目標」ですが、一般論的な正解はなく、人それぞれの個別具体的なものにならざるを得ないと、なんとなく思っています。
というのは、僕は基本的に人間も単なる機械人形だと考えているので、「幸福」というものも概念的なものではなく単なる快楽物質という物質的なモノと考えているからなわけで、外部からの刺激に反応する受容体であるところの個々人の「身体」はオリジナルなわけで、同じ外部刺激に対してどう感じるかは千差万別だろうと、直感的に信じているからです。
オリジナルな「身体」を作り上げる要素が、遺伝なのか環境なのかそこらへんは置いておくとして、大阪の人間の相当数は納豆をうまいと感じませんし、ゲイの男性は女性と性的な行為に及んでもあまり気持ちよくはならないでしょうし、脳の一部が欠損したサイコパスに破壊衝動を抑えろというのも難しそうです。
ので、「小さな目標」の設定にあたっては、とりあえず広く薄くさまざまな体験を実際にしてみて、快楽の量が多かったものを選択すればいいのだろうなぁと、なんとなーく思っております。
ただし、別の記事でも書きましたが、こういった動物的選好はしばしば不合理をもたらすので、理性的な判断によって修正を施した方がいい場合もあるような気がしています。
例えば、僕は学生の頃にいじめに遭ったためか人間不信の気があるのですが、街中を歩いていて急に暴言暴力を受けることなどほぼほぼないと理性的に判断できるので、「外が怖いから家に引きこもる」などといった経験に基づいた選択はしません。
「小さな目標」は、基本的には動物的な好みによって各人がそれぞれに選べばいいと思いますが、バイアスがかかっていることも多いので理性によって無理やり修正することも、メタ的な観点から考えたときに必要だろうなと、とりあえず思っております。
あと、「目標に向かって努力する」こと自体が快楽につながるそうなので、現状に満足しきっているよりも幸福度は上がる可能性が高いです。
ちなみに、「結果発表」という語句についてですが、僕は「自分の人生の評価者は自分以外にいない」と信じているので、僕のいう「最終的な目標」というのも僕の中だけで完結する自己満足的なものです。「僕が、僕の人生をよかったと思えるか」だけが重要なのであって、他者に評価されるものではないよなぁ、と漠然と思っております。
社会や世界にとっての自分の人生の意味なんて毛ほども考えていないというのが、孤独な中年男の一般的な感覚ではないでしょうか。
いずれにせよ、僕の「小さな目標」の具体的な内容については時間ができたときにブログに記していく予定です。
目標達成には、その目標を周囲に公言しておくことが有用らしいのですが、僕のリアルには周囲に他者がいませんから。