ギョーザを包みたい休日。【男の料理】【餃子】

母さんが夜なべをして手ぶくろ編んでくれた~♪
という事実は僕にはないのだが、無性にこの歌を口ずさみながら、「手仕事」をしたくなる日がある。
そんな日はギョーザを包むことにしている。
この歌から感じとれる詩情は、時代の流れとともに変容してきていると思う。
昔は「市販の手ぶくろ」は高価だった。贅沢品だった。
寒村の貧困家庭では、女も子供も手を真っ赤にして、冬の寒さを耐え忍ぶしかなかった。なんとかして子供に手ぶくろを与えてやりたいと思ったらば、貧しい母親は、必然的に徹夜をして、針仕事に明け暮れるしかなかった。昼間は炊事や農作業といった別の仕事があったのだから。
この歌は、母子愛の話であると同時に、貧困の話でもあったと思われる。
ところが現代では、自分で手ぶくろを編むよりも、機械で大量生産された既製品を購入するほうが、手間を考えれば、圧倒的に安価だ。最低賃金の時給で働くパート主婦でさえ、手ぶくろを編む時間をパート労働にあてた方が経済的だ。
貧しい母親が自分で手ぶくろを編む必然性は消え去った。
むしろ現代においては、「市販品」より「手作り」のほうが価値があるとみなされることが増えている。
だからこそ、贈りものに「手作り」の品がしばしば選ばれるのだろう。
貴方のためにこれだけの手間をかけました、というアピールになるのだ。
また、安価で手軽に買えるものをわざわざ手間をかけて手作りするということは、それだけの時間的あるいは精神的な「ゆとり」があるということでもある。
昨今、「丁寧な暮らし」なる概念が流行しているらしい。
ミヒャエル・エンデの『モモ』ではないが、一見無駄に思える手間が実は幸福につながっているということなのだろう。
そこにおいては、成果物がどうこうというよりも、むしろその過程にこそ価値が見出されている。
魚を手に入れるには、市場で買ってもいいし、釣りを楽しんでもいいわけだ。
「母さんが夜なべをして手ぶくろ編んでくれた〜♪」のも、現代においては、単純に「母親の趣味が手芸だったから」という可能性がある。
子供を思ってというよりも、自分の愉しみのために母親は手ぶくろを編んでいる説が濃厚だ。
真夏でも手編みの何かが送られてきて、息子はうんざりしているのかもしれない。
んで。
僕が言いたいのは、「ギョーザを包む」という行為もコレと同じではないかということだ。
ギョーザを包む際になんとなく自然とあの歌を口ずさんでしまう理由について、これまで僕は、背中を丸めて両手の指先をごにょごにょ動かす姿勢が「編みもの」と「ギョーザ包み」で似ているからだと考えていた。
そのしみったれた情景が「清貧」を感じさせるからだ、と考えていた。
しかし、少なくとも「ギョーザ」に関して言えば、スーパーでチルド商品を購入したほうが安価なのだし、ギョーザを「手作り」することに関して「清貧」を感じるなど矛盾しているのだ。
僕は、愉しみのために、趣味として、「ギョーザ包み」を行っている可能性が高い。
つまりだ。
あの歌は、昔は「清貧」の歌であったが、現代では逆に「ゆとり」の歌となっているのである。
無心になって同じ作業を延々と続ける時間が、現代人の僕にとっては、ある種の「癒し」になっているのだと思う。
適量の餡(あん)を皮の上にのせて、ギョーザ独特の、あの形に包んでいく。
1つ、2つ、3つ……。
頭の中をカラッポにして、同じ動作を繰り返す。
楽しいことも嫌なことも、なにも考えない。
テレビも見ない、音楽も聴かない。
外から侵入してくる雑音も、一心に作業を続けるうち、消えていく。
無音である。
気づいたら、用意しておいたギョーザの皮がなくなっている。
餡だけが、余る。
いつもそうだ。


今日はおやすみの日で、空は晴れているなぁ。
腹いっぱいにギョーザを食ったら、昼寝しよう。
と、焼きながら思う。

せっかく労力をかけて作ったギョーザなので、最初の数個は1つ1つのギョーザに向き合って真剣に食べる。
しかし、どっちかっつうと、「食う」より「作る」ことが目的だった気がしないでもないので、食う行為はすぐにおざなりとなる。テレビのくだらないバラエティ番組を見ながら、ビールで流し込む。
それでも、客観的にはおいしいのかどうか分からないが、個人的には「手作りギョーザ」はそこそこうまいことを感じている。

「あ、確かに、味ちがうわ」、
と思ったことだけは覚えている。
具体的には、忘却の彼方。