【雑感】田中慎弥さんが秒で論破されてたけど逆に反骨心に火がついた。

 ある日の朝日新聞〈耕論〉のテーマが「孤独は病か」だった。3人の識者がそれぞれの持論を展開していた。
 芥川賞作家の田中慎弥さんは、自身の引きこもり経験も交えて、「孤独」に対し最終的に次のような評価を下す。

 他人とのコミュニケーションがないことを、深刻に考えすぎるのもよくない。(中略)健康に被害がない限り、孤独は「いけないこと」ではありません。

 「病」ではなく「いけないこと」と言い換えられたことで、問題は単純な二項対立ではなくなった。すなわち、「病か否か」は枢要ではない。それが根治あるいは矯正すべき「いけないこと」なのか。それが問題なのだ。
 新たな問いに対する田中さんのメルクマールは至極単純で、「健康に被害があるか否か」だ。害がないならビョーキとか言われたって別にいんじゃね? ということだ。
 例えば、右手の指が6本の奇形児がいたとしよう。標準ならば5本であるべき指が6本もある、というのは確かに異常だ。しかし、その子が6本指であることに生活上の何らの支障も感じていなかったとしたら? ましてや彼の生命や健康には何らの悪影響もなかったとしたら? その6本目の指は、切断されるべきなのか。
 別にいんじゃね? 病かもしんねーけど、奇形かもしんねーけど、異常かもしんねーけど、別にいんじゃね? 健康に害はねーんだから。
 これが田中さんの主張だ。至極単純で清々しい。
 孤独な人々の多くは、彼の主張に同意するだろう。

 そもそも言葉を手に入れた猿どもは、都合の良いようにそれを使い過ぎだ。
 「病」という言葉も拡大解釈されたり縮小解釈されたりしてきた。大昔、ホモセクシャルは「病気」だったが、現代文明社会では「病気」ではない。大昔、うつはただの気分の落ち込みと等閑視されたが、現代文明社会ではすぐさま精神科の受診を勧められる。
 このように猿どもが適当に使っているに過ぎないただの道具(概念)に、一喜一憂して、右往左往すべきではない。
 健康に害がない限り、すなわち最狭義の「病気」でない限り、「孤独」という状態に対して第三者が道徳的にとやかく言う権利はないし、そもそもその能力もない。
 と田中さんは主張しているのだ、と僕には読めた。

 ところが、田中さんの主張は同じ紙面で、秒殺で反駁されていた。
 反論した岡本純子さんという論者の肩書きは「オジサンの孤独研究家」。
 は?
 平日の早朝、コーヒーを飲みながら黙々と新聞を読んでいたのだが、つい声に出てしまった。「は?」 そんな職業が成り立つんだ? そんなニッチな産業の需要は一体どこに? とクエスチョンマークが脳内を行き交った。
 岡本さんの正体はいまいち不明だったが、書かれていることは「研究家」を名乗るだけあってファクトの連打だった。

 孤独の悪影響を証明した医学的研究は無数にあります。心疾患リスクを29%上げる。1日たばこを15本吸うことに匹敵する。アルツハイマーになるリスクが2・1倍になる。うつ病やアルコール依存症などの精神的な疾患にもつながります。米国の前公衆衛生局長官は、「病気になる人々の共通した病理は孤独だった」という論文を発表しました。




 K.O. ゴングが鳴った。僕らの田中さんは完膚無きまでにノックアウトされ、床の上でのびていた。

 孤独も個性の1つだろーが!
 テメェ等に偉そうに説教される筋合いねーわ!
 すっこめ!
 くたばれ!
 と、盛んにヤジを飛ばしていた田中さん側の観客は、一瞬にして静まり返った。

 そうか、孤独ってマジで病気だったんだな……。
 ヤベェな……。
 囁き声があちらこちらから聞こえてきた。

 馬鹿野郎ッ!!! テメェ等、騙されんじゃねえッ!
 僕は叫びたかったが、場内の雰囲気がそれを許さなかった。
「孤独は貴方の身体に深刻な悪影響を及ぼす可能性があります。即時、孤独な状態を改善して下さい。私たちにはそれを貴方に強要する道徳的根拠があります。繰り返します。孤独は貴方の身体に深刻な悪影響を……」
 機械で合成されたような女の声が同じ言葉を何度もアナウンスした。

 僕は席に座ったまま、俯いて、肩を震わせていた。
 間違ってる……。彼女は間違っている。田中さんが正しいんだ。絶対だ。彼女は間違ってる……。間違ってる、間違ってる、間違って――

「オレが証明してやんよ」
 隣に座っていた中年男性が、静かに、しかし力強く呟いた。
「研究がなんだ。データがなんだ。頭でっかちの眼鏡猿どもにオレの生き方を否定されてたまるかってんだ。オレが証明してやんよ。孤独なままで、健康に生きて、平均寿命を超えてやる! オレが証明してやる! だから立て! 田中!」
 彼の呟きは絶叫へと変わっていた。
 僕は顔を上げた。そして、叫んだ。
「俺も、証明してやる! 立て田中!」
 野太い声が断続的に響いた。
「未来は誰にも分からねえ!」
「次、勝てばいいんだ!」
「お前が倒れちまったままじゃ〈オジサン研究家〉の思う壺だぞ!」
「膨大な屍の上に1人の勝者が立ちゃいいんだ!」
「誰かが眼鏡猿の理論を反証するさ! お前は間違っちゃねえ!」
「誰かが、じゃねえ! オレが証明してやる!」
「オレもだ、オレも証明してやる!」
 彼らの声は止むことはなかった。反骨の炎はメラメラと燃え上がっていた。



 さて、〈耕論〉に寄稿した3人の識者の最後の1人、社会学者の南後由和さんは、次のように述べている。

 SNSで常につながるというテクノロジーの変化が、都市の若者の「ひとり」の意識に変化を与えつつあります。(中略)コンセプトカフェなど一部の場所では、会話するでもなく、趣味を共有する人たちと、「みんな」で「ひとり」を楽しむことも人気を集めています。

 とりあえず僕は、「孤独であっても健康で長生きできる」ことを証明すべく努める所存だ。「孤独は病気」説は良い意味での「煽り」にしか聞こえなかった。
 風に煽られ、炎は燃え上がる。


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