【サボテン日記】夏の観察日記。with豆苗。
1日目――。

なつやすみなので、ぼくはしょくぶつのかんさつにっきをやることにしました。
ぼくがすきなしょくぶつはサボテンなので、サボテンをかんさつしたいとおもいます。サボテンのなまえは、ジェシーといいます。
それと、きんじょのニートのおにいちゃんが、「サボテンなんて、1週間くらいじゃゼンゼンかわんねーぞ」と、いったので、「とうみょう」というしょくぶつといっしょに、かんさつをしたいとおもいます。「とうみょう」は、きんじょのスーパーで、おにいちゃんといっしょにかってきました。「とうみょう」は、ジェシーとちがって、すぐにおおきくなるそうです。
ジェシーと「とうみょう」が、これから、どんなふうにおおきくなってくのかなぁ、と、ぼくはワクワクして、たのしみです。
2日目――。

ぼくが買ってきた豆苗は、もう成長し終わっていたので、いったん、豆苗をリセットすることにしました。つまり、写真みたいに、根もとでバッサリ切りました。近所のニートのおにいさんの話を信じるなら、豆苗はこれからグングン成長するはずです。
ジェシーがどうなるかは、分かりません。
ジェシーもグングン大きくなって、メキシコの砂ばくに生えてるみたいなカッコイイやつになってくれたらいいな、と思っています。
3日目――。

豆苗に早くも変化があった。昨日僕に切られたばかりだというのに、もう新芽を出したのだ。
正直、少しも成長することなく、そのまま枯れていく可能性も考えていたので、驚いた。植物の生命力の強さは、人間の僕の理解を超えている。
近所の野良猫で同じように実験してみたが、頭部を切断された首から新しいアタマが生えてくる、ということは残念ながらなかった。猫の身体は腐って、切断面からは蛆がわき出しただけだった。
理科の授業で食物連鎖の最下層に位置する存在が植物だと教えられたが、最下層の存在がこれほどまでに逞しいものなのだろうか? 僕は疑問に思う。
最下層に位置し、常に他者から蹂躙を受け続ける立場だからこそ、「強さ」を手に入れたのだろうか? 弱者は、逆説的に「強さ」を手に入れる?
いや、この生命力の強さは植物固有のものだろう。
近所のニートを観察していれば、それはすぐに分かる。人間の最下層民は、植物のように逞しくはない。一度、理不尽な力によって切り取られてしまえば、それで終わり。新芽を出すこともなく、枯れていく。
餓鬼の頃は、ニートのことを「近所に住む暇なお兄さん」程度にしか捉えていなかった。しかし、この年になるとアイツが社会の落伍者、人間社会のヒエラルキーの最下層に位置するゴミクズであることが容易に理解できる。アイツは駄目だ。何があったのか知らないが、一度切られただけで簡単に枯れてしまった。アイツの心に新芽が芽吹いて、アイツが再び立ち上がる、なんてことは到底期待できそうにない。
僕はニートを反面教師として、まっ当な大人に成長していきたいと思う。
ジェシーにこれといった変化は見られない。サボテンの寿命はどの程度なのだろう? ジェシーは、人間の成長段階に喩えると、どの時期に位置するのだろう?
4日目――。

豆苗は、すくすくと健やかに成長している。背丈も昨日に比べて倍ほどになった。明日にでもジェシーの身長を追い越しそうだ。
そうだ、間違いなく僕らは成長している!
抑えようもない生命力のエネルギーが身体の奥深くから迸り、その奔流をすべて受けとめんと、容れ物である僕らの身体もどんどんと大きくなっている。
しかしだ! 嗚呼! 僕の若葉のような血気に満ちた生命力は、とても僕の内部に留まってなどいてくれない。隠しようもなく身体にあいた穴という穴から発散されてしまう。それは一種のフェロモンとなって、僕と同じように自らの若さを持て余す者たちを引き寄せる。
嗚呼、彼女! まさに芳紀――新緑の瑞々しさ!
こう観察日記に記したところで、それを僕の肩越しに覗き込んでいた近所のニートが、気色悪くニタニタ嗤っていることに気付いた。
ニートを部屋から追い出した。
可哀相な奴だ。
彼は、人生にたった一度きりの、輝きに満ちた青春時代を過ごせなかったに違いない。どの学校のどのクラスにも一人か二人かは必ずいるだろう。発育不良の根暗人間が。僕には、暗がりに好んで隠れようとする彼らの気持ちが到底理解できない。明るい陽の光を浴びながら新緑の中を歩けば、この世界が希望に満ち溢れ、眩く輝いていることを実感できようものなのに!
ジェシーに変化は見られない。駄目な奴だ。
いや、待てよ。彼はすでに成長を終えたのかも知れない。今の状態がジェシーの完成形なのか?
5日目――。

もちろん豆苗は大きくなってるさ、僕と同じようにね。
だけど、それが何だって言うんだ? 僕には分からない。少しばかり大きくなったってだけじゃないか。宇宙全体に占める彼の割合が極端に増えた、とでも言うのかい?
僕らが生まれ、育ち、老いて、死んでいく――。
そんなことは宇宙にとっちゃ、これっぽちも意味のないことなんだ。
最近の僕は、時々こう思ってる――この観察日記も辞めちゃっていいんじゃないか、ってね。
なぜって、僕らの「変化」は「不変」と等価なのだから。
極端な話に聞こえるかも知れないけど、例えば、僕の近所に住むニートが、勤め人になろうが、無差別殺人鬼になろうが、宇宙にとっちゃそれは、「どうでもいいこと」なんだ。
結局、同じなんだよ、それは。
考えてみれば、他者との間にほんの些細な違いを見つけて、優越感に浸ったり劣等感に押し潰されたりするなんて、ほんとうに意味がないことだ。
ジェシーはそれを理解しているのかも知れないな。あえて成長する必要なんてない、と。それは結局、無意味なことなんだから。
そう考えてみると、嬉々として成長していく豆苗が馬鹿に見えてくるくらいだよ。
やれやれ。
6日目――。

私の観察日記も明日で終わりを迎えようとしている。この間、二種の植物を観察してきたわけだが、しかしまあ、サボテンのジェシーだけで観察日記を始めなくて本当に良かったと、今、心からそう思っている。
私は自分との親和性を感じてジェシーを購入するに至ったわけだが、「観察」という能動的行為を遂げるにあたって、その対象として「サボテン」は明らかに不向きであった。
変化がないのである。
まったくもって、変化しないのである。
嘘だと疑われるならば、1日目と本日の写真に写るジェシーを見比べてみたまえ。そこに何かしらの違いを見つけることは極めて困難であろう。
ジェシーだけを観察対象にしていたならば、私は3日目を過ぎたあたりで発狂していたに相違ない。それはあたかも、「白紙のカンヴァス」を観賞し続けろ、と言われるに等しき苦行となったであろう。
観察者の立場としては、ジェシーよりも、むしろ、短期間で顕著な変化を見せてくれる豆苗に愛着を感じていたと正直に告白せねばなるまい。こちらの期待通りにすくすくと成長していく豆苗。かたや、一向に変化がないジェシー。観察しがいのある植物がどちらであるかは明白であろう。
世間の親が幼児(おさなご)を可愛く感じるのも、「成長」という変化が目に見えて感じとれるからなのやも知れぬ。
人間は刺激を求める生物である。変化がなければ生きてはいけぬ。
近所に住むニートの青年だが、彼もまた変化が見られない。いや、より悪い方向へと転落の一途を辿っているように私には思える。ご両親が彼を見放すのも時間の問題であろう。
7日目(安息日)――。

豆苗の命が果てようとしている。
僕の予想を上回るペースで成長してきた彼だったが、力尽きるのも早かった。
再度写真を見て欲しい。
この、へたばり具合。週の後半に見せた、あの勢いはどこへ行ってしまったのか。あの頃の豆苗は、サボテンのジェシーを圧倒していた。ジェシーは完全に豆苗の活力に気圧されていた。引いていた。鬱陶しそうだった。
それが今や、立場は逆転。
ジェシーがどうなったかと言えば、こうだ。

まったく、変化が、ない。
ジェシーはこの一週間、成長することもなかったが、同時に、枯れていくこともなかった。
世の中の多くの人は、「発育」や「成熟」が善かのように考えているが、僕はそうは思わない。なぜなら、その後に待ち構えているものが、「老衰」だからだ。
すなわち、死。
成長していくということは、それはつまり、「死」に向かって歩いていくことと同義でもある。
そう考えれば、僕には、豆苗が「死」に向かって嬉々として走り寄っていたようにさえ思えてきた。そんなに早く死にたかったのか、と思った。
この後、豆苗はただ枯れていくのみだろう。すでに悪臭を放ってきているので、スーパーの袋に入れて、ゴミ箱に捨てることにする。
ジェシーが不変であることに、僕が若干の物足りなさを感じていたことは事実だ。
しかしそれは同時に、彼の生命の永続性をも示していた。
成長がないということは、老衰がないということであるし、変化がないということは、つまり永遠に在り続けるということなのだ。
サボテンのジェシーは「永遠の命」の象徴である。
僕はそんなジェシーをより愛しく感じる。
○
1日目(再び長い一週間が始まる)――。
僕は先程、「永遠=ジェシー」という結論を短絡的に導いた。しかし、少し考えればこの結論が明らかな誤りであることは分かるだろう。
人間のことを考えてみればいい。
人間もジェシーと同じく、数日や数週間では、そこまで劇的な変化を見せない(病気などの場合は別だが)。先週の僕の顔と、今週の僕の顔は、同一と言っていいほどに似通っている。
しかし、外見上は何ら変化がなくとも、実はしっかりと何かが変化している。
いくら否定しようとも、それは事実だ。
プラスかマイナスか、成長か老衰かは分からないが、ジェシーも僕も、確実に、変化している。
すなわち「死」に近づいている。
人生は絶対的に有限だ。
死なない人は一人もいない。
万物流転。
永遠などという存在は存在しない。
僕がジェシーを「永遠の象徴」として扱おうとしたのは、そのことを忘れたいが為だったのかもしれない。
死にたくないし、老いたくないし、衰えたくない。ずっとずっと、若いままでいたい。
そういった願望が、「ジェシーは何も変化していない」などと錯覚させたのだ。
変化してるじゃないか。
ジェシーも。
僕も。
僕の命に限りがあることは明白なのだから、豆苗のように分かりやすい変化がなくとも、そのことを常に心のどこかに留め置き、無意識の切迫感を持ち続けることで、より充実した人生を過ごせるようになるだろう。
と、そんなふうに今は考えている。
夏の植物日記を終える。