【日常】負け犬系男子がはじめて献血に行ってきた。

 先日、人生初の献血を体験してきた。自分の血を他人に提供したのだ。当然だが、それは普通の合法な献血で、経済的に困窮して闇ブローカーに血液を売ってきたとか、そういう話ではない。あくまで慈善活動・ボランティアだ。
 渡されたパンフによれば、主催は日本赤十字社だった。

 献血をはじめとするボランティア活動は、人々の善意によって成り立っている。だが、僕は善人ではない。今回の献血も、僕の善意からくる行動では決してない。
 僕はただ、誰か他人から感謝されたかった。

 その日、僕は駅前にある商業施設に買い物に出かけた。商業施設の入り口では、サラリーマン風のYシャツ姿の男性がポケットティッシュを配っていた。どうせ何かの宣伝だろう、鬱陶しいな、と思った。だが違った。彼は「献血にご協力下さい!」と叫んでいるのだった。
 男性の傍らでは、善良そうな小柄な中年女性が、初老の男性客に向かって献血の簡単な説明をしていた。
 素通りして店内に入ろうとしたのだが、Yシャツ姿の男性が、「そんなに時間はかかりませんので、もし良かったら献血にご協力くださいネ」と日焼けした顔に人の善い笑みを浮かべて、ティッシュを差し出してきた。さすがにそれを拒むほど僕は悪人ではなかったので、なんとなくティッシュを受け取った。
 残暑の残る九月某日。天気は快晴。真昼間。男性の長袖のYシャツは二の腕までまくり上げられていた。彼の額からは汗が幾筋か流れ落ちていた。甲子園球児たちが流すのと同じ、爽やかな汗だった。陽光を受けて彼の歯が白く輝く。眩しい。真っ黒に日焼けした肌とのコントラストが鮮やかだった。おそらく男性は、この夏の間中ずっと、こうして「献血にご協力下さい!」と屋外で呼びかけていたのだろう。

 日用雑貨などのこまごました買い物を終え、帰路に着こうと、商業施設の出入口に僕は再び戻ってきた。
 白いYシャツ姿の男性は、まだ献血への協力を呼びかけていた。中年女性の方は、今まさに協力者を獲得したようで、「ありがとうございます!」とその買い物客に向かって深くお辞儀し、「それじゃご案内しますね」と言って、どこかへ行った。
 その瞬間、Yシャツ姿の男性と、目が合った。
 そして、ほんのコンマ数秒、見つめ合った。
 なんという、つぶらな瞳。小鹿だ。男性はおそらく三十歳前後と思われるのだが、その瞳は幼い少年のように清らかだった。澄んでいた。(同年代の僕とは正反対だ。僕など、盆に帰省した際、母親に「殺人鬼みたいな眼つきをするな」と謎の注意をされた。)
 そして、彼のその瞳が僕を優しく脅迫してきたのである。

「献血、してくださいますよネ?」

 と。
 僕は催眠術師に操られたかのようにふらふらと男性に近づくと、「あのぅ~、献血ってどのくらい時間かかりますぅ?」などと口走っていた。
「ありがとうございます!」そう明るく叫んだ男性は、どんな敏腕営業マンも顔負けの笑顔とお辞儀を僕に見せた。企業の研修担当者は講師として赤十字の職員を招くべきかもしれない。

 とは言え、彼の反応は予想通りだった。
 僕は心のどこかでこれを期待していた。

 この充足感。

 満足感。

 優越感。

 自己効力感。

 負け犬系男子の日常で、誰かに感謝される機会など、皆無に等しい。むしろ、蔑まれ、罵られ、貶される機会の方が多い。仕事で何かポジティブな行動をしても、それは仕事なのだから当然のことなのだ。「『ありがとう』の一言くらい言えよ糞野郎」と、顔面に拳をめり込ませてやりたい輩が腐るほどいる。そんな重苦しい日々を送っているのだ。
 だから、こうやって他人から感謝される機会というのは、僕のような負け犬系男子にとっては極めて貴重だ。

 僕は、きっと、誰でもいいから誰かに感謝されたかったのだと思う。
 もっと言えば、誰かに自分を評価して欲しかった。他者の承認を切望していたのだ。
 僕が今回、献血をしたのは、こういった理由からで、決して輸血を必要としている人々のことを慮ってのことではない。善意からでは決してない。
 単なる自己満足だ。

 男性によると、献血に要する時間は休息の時間も含めてだいたい30分程度とのことだった。
 案内された先は屋外駐車場で、一角に献血会場が仮設されていた。医療用バスが2台停まっており、その周りに長机と椅子が並べられ、何本かのパラソルが晩夏の太陽光から職員や参加者たちを守っていた。

 ここで別の男性職員に案内は引き継がれた。その男性職員も、大学のアメフト部員を思わせる、これまた爽やかな男性であった。やはり日本赤十字社に勤める人間というのは、彼らのように善良そうな人種でなければならないのだろう。
「初めてですか?」
 にこやかに男性が聞いてきた。
「はい」
 僕もできるだけ善人を装いつつ、頷いた。
「ありがとうございます! ええと、献血ではエイズ検査はできませんが、大丈夫ですか?」
「へ? いや、別にエイズ検査が目的じゃないです」
 おいおい、そう見えたのか? だとしたら軽くショックだ。
「ですよね、ですよね、すいません! まだまだ血液、足りないんですよ! 初めての方はだいたい200mlからお願いしてるんですけど、もし良かったら400mlでお願いしますネ!」
「へ? ああ、はい」
「ありがとうございます! じゃあ、まず――」
「あ、あの、すいません、400mlとかって、初めてでいきなりそんなに血抜いちゃって、大丈夫なんですかね?」
「うーん、そうですねー。人によりますねー(満面の笑み)」
「え。あの、僕は、400mlでも大丈夫なんすか?」
「大丈夫と思いますけどねー。お若いですし」
「へ? あ、はい。そうっすか。じゃあ400mlで」

 このような話の流れで、なんとなく200mlの倍の400mlの血液を提供することになったわけだが、献血直前、看護師のおばちゃんに「初めてなのに400ml? 大丈夫?」と不安感を倍増させる問いを投げかけられたのだった。僕の後に献血をしていた若い女性も初めてのようだったが、彼女は200mlだった。
 初めてか否かに関わらず、献血では200mlか400mlのいずれかを選択できるらしいので、不安な場合はとりあえず200mlを選択しよう。僕は400mlをなんとなく選択してしまい、初めての献血に対する不安を自ら倍にしてしまった。
 しかし、赤十字の職員も侮れない。気付いたら400mlを選択していたからね。うん。

 初めての献血だったので、病院の問診票のようなものを書かされた。また、不審者の血液は不要らしく、身分証明書(運転免許証)の提示も求められた。これらの情報がパソコン端末に入力され、その場で自分の献血カードが発行された。次回以降はこの献血カードを提示すればいいようだ。

 その後、献血の不適格条件に該当するか否かの確認があった。不適格条件に該当する場合、どれほど献血の意思があっても献血は認められない。血液の安全性を確保するためには仕方ないだろう。

 この確認はパソコンで行われるのだが、多岐にわたる質問が用意されていた。長かった。
 その中で気になった質問を紹介する。
 まず、僕を含めた多くの男性がドキリとするだろう項目があった。

〈6ヶ月以内に、不特定の異性または新たな異性と性的接触がありましたか?〉

 負け犬系男子の多くは、ここで必死に記憶の糸をたぐるはずである。
「この前、風俗に行ったの、いつだっけ?」と。
 当然の話だが、勝ち組男子(の大多数)はここで慌てる必要がない。なぜなら、彼らの性交渉の相手は常に特定されているからだ。つまり、妻もしくは彼女がいるということだ。くそったれ。
 また、この質問にYESと答える男性には大きく分けて2パターンが考えられる。
 第一に〈チャラ男系〉、第二に〈負け犬系〉である。
 前者は、性に対して極めて解放的で、かつ相手に困らないタイプである。性交渉のみを目的とする、通称〈セフレ〉と呼ばれる女性を複数人有していることが多い。また、〈ナンパ〉と呼ばれる未知の行為によって不特定の女性と性交渉に及ぶことも多々ある。
 後者は、性的好奇心は強いものの、特定の性交渉の相手を得られないタイプである。彼らも不特定多数の女性と性的交渉を持つが、前者の〈チャラ男系〉と決定的に異なるのは、そこに金銭のやりとりが介在するという点である。要は、風俗だ。負け犬系男子が異性と性的接触を持とうとすれば風俗に頼るくらいしか方法がない。もしくは、豚箱覚悟の犯罪行為だ。
 〈この質問にYESと答えるブサメン〉は十中八九、性欲盛んな負け犬系男子である。
 一方、草食系もしくは引きこもり系・コミュ障系のハイブリッド型負け犬系男子は、この質問に対して、NOと答える可能性が高い。僕もそうだ。幾分逡巡したのだが、風俗を用いて性処理を行ったのは間違いなく一年以上前だった。それ以降の性処理に関しては専らオナニーで満足している。その世間的な良し悪しは置いておき、とりあえず〈不特定の異性との接触〉はなかったのだから、献血的にはOKだ。
 そして、もう一つ気になる質問が。

〈6ヶ月以内に、男性同士の性的接触がありましたか?〉

 IKKOは激怒した。マツコ・デラックスは、その巨体を怒りでさらに膨らませた。オスギとピーコは猛然と反発した。「ナンセンスよ、ナンセンス。意味が分からないわ。これこそ差別以外の何者でもないわよ。リスキーなセックスをするのはゲイに限ったことじゃないでしょ。むしろ最近の肉食系女子に比べたらゲイのセックスなんて退屈なくらいにセーフティよ。ちゃんとゴムだって付けるしね。ほんと赤十字さんったら、こんなナンセンスな質問をいつまで続ける気かしら」
 僕はテレビの〈オカマタレント〉が大好きだ。よって、彼ら?彼女ら?の肩を持ちたい。

 長々しいアンケートに答えた後、2台あるバスの1台に案内された。
 そのバスは休憩室としても使われているようだった。献血を待つ主婦らしき女性や献血を終えた男子高校生などがいた。

 奥の方にカーテンで仕切られた一角があり、そこで医師による問診を受けた。
 医師は、まるで取調室の刑事のようだった。表面上は和やかな態度を貫いているのだが、確固とした疑いの念が医師の瞳の奥深くから読み取れた。アンケートの中でも重要な項目について再確認をしているようだった。
 最後の方で、やっと、「体調は大丈夫ですか?」「この後、車を運転する予定はありますか?」「緊張すると気分が悪くなることもありますので、リラックスしてくださいね」「400mlも水分を失うことになりますから、お茶やジュースは無料ですので何本でも飲んでいって下さいね」などと僕を心配する言葉を吐いてくれた。
 その後、バスの中で自分の献血の番を待った。医師や職員が執拗に水分補給を勧めてくるので、ペットボトルのジュースを一本飲んだ。また、車内に用意されていた菓子類も無料とのことだった。あまり見かけない怪しげな菓子がプラスチックの網カゴに無造作に入れられていた。主婦も男子高校生も、誰も、その菓子に手を触れようとはしなかった。

 
「tarukichiさん、どうぞー」
 とうとう僕の番がやってきた。
 職員に案内され、もう1台のバスに移動する。
 その医療バスは、まさに献血のためだけに存在した。なにやら近未来的な医療機器が所狭しと並べられ、それぞれの機械にそれを操る看護師が付いていた。一見すると、機械が看護師を操っているように見えなくもなかった。そして、それぞれペアとなった機械と看護師の前に、簡易ベッドが置かれていた。
 ベッドは全部で4つあり、1つには既に献血者が横たわっていた。肉体労働者風の中年男性だった。

 さっそく僕も空いているベッドに寝かされ、献血チューブを通じて近未来的な機械と繋がるのかと思っていたら、あれだけアンケートや問診をしたにも関わらず、献血の前に採血検査を行うとのことだった。
 どんだけ調べんだよ、と思わないでもなかったが、安全な血液を患者の元に届けるためには致し方ないのだろう。
 この採血検査は、会社の健康診断で行われるものと大して変わりなかった。よく見る大きさの注射器に血液が吸い込まれていった。
 その血液の数滴がすぐにリトマス試験紙のような紙に塗布され、数秒後、検査担当の看護師が、特に問題ないですね、と言った。

 なお、このような訳で、献血の際には両腕に注射針を刺されることになる。片方は採血検査用、もう片方が献血用だ。そして、右腕と左腕のうち血管が浮き出やすい方の腕で献血は行われる。なぜなら、献血用の注射針は、通常の採血検査の際に用いられるそれの何倍もの太さがあるからだ。看護師が注射をより刺しやすい方を選ぶのだ。
 僕の場合は右腕の方にしっかりと血管が浮き出るということで、採血は左腕で行われた。
 左腕の注射の痕は数日も経たずに消え去ったが、右腕の注射の痕は一週間経っても薄っすらと残っていた。それだけ、針の太さに違いがあるということだ。
 針が皮膚に突き刺さる瞬間の痛さに関しては、採血用のも献血用のもそれほど違いはなかったが、献血用の注射針の方に関しては、〈挿入されてる感〉を強烈に感じた。皮膚を突き破って、体内に侵入してきた存在を、ぐんぐん、感じた。
 お、お、お、入っています! 注射針が、今、僕の、血管の、中にィ!
 と、無言の叫びが脳内に響いていた。

 
 僕の献血を担当した看護師はベテランの中年女性だった。他の若い看護師たちに遠目から指示を飛ばしていたので、経験豊富なのは間違いないだろう。看護師らしからぬ厚化粧で、ただ、その厚化粧のせいでどことなく〈女性アンドロイド〉のようにも見え、近未来的な献血用医療機器と、どことなくマッチしていた。
 しかし、彼女の口調は〈関西のオバハン〉そのものだった。
「お兄ちゃん、初めてやの?」「なんで急に献血しよう思たんー?」「自分の血ぃ見んの、大丈夫なほう? 大丈夫ちゃうかったら目ぇつぶっときや」
 普通の人は、彼女のフレンドリーな態度に緊張をほぐされるのかもしれない。もしかすると、彼女の異名は〈泣く子も黙る献血の鬼〉なのかもしれない。だが僕は、彼女のあまりの馴れ馴れしさに多少イラついていた。だが、それを表面に出すほど子供でもなかった。

 太い針が右腕に突き刺さる。その針は注射器を介してチューブと繋がっている。チューブは献血用の機械に繋がっている。
「じゃ、始めるねー」と、厚化粧のババアが言った。
 次の瞬間、血液が吸い込まれていくのを確かに感じた。ドラゴンボールのセル(初期形態)は、鋭利な針を先端に有した尾を持っていた。それを人間に突き刺し、生命エネルギーを吸収するのだ。

 僕はセルの餌食となっていた。注射針は旨そうに僕の血液を吸っていた。お、お、お……。吸われている……。吸われていく……。
 厚化粧のババアが棒状の布を僕に差し出してきた。
「時々これを掌の中で軽く握ってなー。血液が出やすくなるからなー。献血が早く終わるでー」
 お、おう? 軽く棒状の布を握ってみた。
 ジュルジュルジュルジュル。
 血液の流れが速くなったのが、確かに分かった。
 うめえ、うめえ! 人間の赤い血液は最高じゃけえ!
 注射器は、なぜか広島弁で歓喜していた。
 それほど喜んで貰えて、僕も本望だ。

「はーい、ご苦労様」
 献血は唐突に終わった。
「大丈夫? 気分、悪ないか? そうかー? まあ念のために、ちゃんと休憩してから帰りや。また来てなー」
 ベテラン看護師に見送られ、僕はバスを降りた。献血後、気を失って転倒し怪我をする人もいるということで、職員が休憩用のバスまで付き添ってくれた。水分補給重要ですよ、とペットボトルをまたもや押し付けられた。
 休憩室には、主婦らしき中年女性と、年金生活者らしき年配の男性がいた。彼らも僕と同類だ、と直感した。間違いなく、二人は無職だろう。「社会に貢献している」という感覚が、僕と同じように乏しいに違いない。だから、こうして献血で気を紛らわせている。自分の存在価値を献血で確認している。ようく観察してみると、二人の鼻の穴は興奮と自尊心で若干膨らんでいるのだ。口元には微笑が浮かんでいたりして、「ああ、私は今日、善いことをしたぞ」という満足感に充たされているのが、手に取るように分かった。きっと僕も、彼らと同じ表情だったに違いない。

 渡されたストップウォッチが休憩時間の終了を報せた。休憩用のバスから降りる。職員が近づいてきた。また、もの凄い低姿勢で神の慈悲かってくらい感謝されるかと期待していたのだが、レストランでウェイターが客を見送るテンションで「ありがとうございました」を言われた。スタッフたちも疲れていたのかもしれない。「ありがとうございました」の声も若干、掠れていた。
 献血をすれば〈お土産〉を貰えるとは聞いていた。家に帰って中身を確認したら、サランラップやら洗剤やらの生活雑貨だった。その日、僕が買った物の中にサランラップも洗剤もあった。

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