花火とともにイヤな過去はこっぱみじん。【いたみ花火大会】



 夏が終わる。もう8月も終わる。
 今年は残り3分の1。

 マジかよ。
 驚きを禁じ得ない。

 種々のストレス要因に懊悩していたら、瞬く間に時間が過ぎ去っていた。
 実にもったいない時間の過ごし方をしている。人生をまったく楽しめていない。

 だがしかし。

 一番の大きな悩みが、決して綺麗なかたちではないが、なんとか終結した。

 もうソレは「終わったこと」だ。

 今後、僕がすべきことは、ソレを「思い出さないこと」。
 教訓だけはしっかりと学んで、それ以外の「イヤな記憶」「負の感情」は葬り去ること。

 8月も下旬だが、まだまだ夏真っ盛りだった。
 花火を見よう、と思った。

 夜空でパッカ~ンと破裂する花火を見て、イヤな記憶もこっぱみじんに吹き飛ばそうと思った。

 盛大な葬式だ。
 僕の今年の3分の2は実に酷いものだったが、もう、それは終結をむかえたのだ。
 早々に弔って、綺麗さっぱり決別しよう。


 関西の主要な花火大会はほぼ終了していた。
 大阪近郊となると兵庫県伊丹市の「いたみ花火大会」しか残っていなかった。

 一種の「葬式」なのだから、しんみりと感傷的な気分で花火を見る必要があった。
 が、しかし、「いたみ花火大会」も他の花火大会と同じく、興奮気味の若者やDQN気味の中年が溢れかえっていた。
 仕方がないので、イヤホンをして大音量で音楽を流し、自分だけの世界に籠る。
 群衆の中で、またもや「ぼっち」。
 否応なく感傷的な気分に拍車がかかった。

 爆発してくれ。
 頼むから、爆発してくれ。

 10年以上前から「ぼっち花火大会」は何度も経験しているが、思うことは同じ。

 まわりのリア充どもの頭、花火みたいに爆発しないかな。脳漿飛び散らせて、頭がなくなった身体だけ、ドッと地面に打ち付けられないかしら。
 というか、いっそのこと、地球、爆発しろ。爆ぜろ。きれいさっぱり、な~くなれ。

 まったく勘弁してほしい。
 アラフォーにもなって、20代の頃からまったく成長してやいない。

 やはり、ソレから「教訓」だけは学ばねばならない。
 このままじゃ、ずっと、同じことの繰り返しだ。
 いい加減、僕、変わらないと、生き辛い人生がこのまま延々と続くことになる。
 時間の経過も曖昧になるような無味乾燥な日々が続いていくだけ。

 ゲボ吐きそう。
 吐き気を催さずにはいられない。

 なんとかするには、「イヤな記憶」から感情を切り離して「教訓」だけはしっかり学ぶこと。
 後日、このブログで明確に言語化しておかなくては。
 惰性にまかせていては、きっと、何もしない。

 まわりのリア充どもを、生暖かい目で見られるような、そんなニンゲンに、僕はなりたい。
 あわよくば、リア充になりたい。

陽が沈みかけた夕空は、どこまでも広い。
 なのに、地面には群衆が密集。



 花火大会は、たぶん5年ぶりだった。
 コロナ禍の間は行っていないから。

 せっかくなので屋台で食いものを購入。
 晩飯を食っておらず腹が減っていたので、腹が膨れそうな「広島焼き」を購入した。2人前。ふつうに1人で食った。


 そして、今年初の「かき氷」も購入した。
 そういや今年の夏は、冷やし中華食ってないな。海見てないな。
 なんかいろいろとやってないことあるよな。
 あ、それは夏に限らねえわ。春も秋も冬も、だわ。
 普通のニンゲンがやってること、俺、ぜんぜんやってへんわ。
 つうか、人生で経験しとくべきだったこと、ぜんぜんやってへんかった。
 だからこその、今の、生き辛さ。
 やれやれ。

 死ぬまで生き辛いか、自分が変わるか。
 結局、二者択一だよな。

 二者択一の答えは、分かりきっている。
 前を向く必要がある。
 過去を切り捨て、未来を見据える必要がある。

 そのためには、なんとしても、気分を切り替えるんだ。

 花火を見る。

 こっぱみじんに砕け散る花火を見る。

 ひとつひとつ丹念に作り上げられた花火玉が、儚く散りゆくさまを見る。

 終わりだ、終わり。

 すべては終わったのだ。

 その終わりを、新たな希望につなげるために、僕は、美しく輝く大輪の花火を、目に焼き付ける。

 さようなら、合掌。

これはオープニング。
フィナーレは、流行歌にあわせて
プログラミングされた花火がテンポよく打ちあがった。
前向きな明るい曲が多く救われた。
(花火鑑賞中はイヤホンは当然外していた。)


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