【サーカス】「オーヴォ」シルク・ドゥ・ソレイユ

 大道芸と舞台芸術――両者が邂逅したとき、何が起こるのか。そんな期待を持って、シルク・ドゥ・ソレイユ「オーヴォ」の大阪公演を観に行ってきた。なお、シルク・ドゥ・ソレイユの公演を観覧するのは今回が初となる。

特設テント。当日はあいにくの曇り。
エントランスロビー内の風景。

 さて、結論から述べよう。
 両者が〈幸福な結婚〉を遂げるためには、両者共に最高級の技を有していることが必須だ。その場合においてのみ、既存の大道芸や舞台芸術を超える、未知のエンターテインメントが誕生する。
 仮に、どちらか一方、あるいは双方が、最高の域に達していない場合、両者の融合は絶望的な破局を迎える。
 そもそも、肉体運動を極めたならばそこにはおのずから洗練された美が内包されるものだし、舞台芸術を極めるならば高度な身体能力が必要とされる。双方の極致は、区別が付かないほど近接した場所に位置するように思われる。例えば、内村航平選手の体操演技は一種の芸術のように美しいし、ウェストサイド物語を踊るブロードウェイ・キャストたちは体操選手のように筋肉隆々で逞しい。そういうことだ。
 であるからして、殊更に「大道芸と舞台芸術の融合」などと強調する必要はないのかもしれない。それぞれの技がホンモノであるならば、それだけで観衆は満足する。

 では、シルク・ドゥ・ソレイユの大道芸人たちの技は、そういった意味でホンモノだっただろうか。派手な音楽や煌びやかな衣装がなくとも観賞に耐えうる大道芸だっただろうか。肉体の単なる物理運動がエンターテインメントにまで昇華されていただろうか。
 もちろん。
 答えはYesだ。
 個々の大道芸人の技はホンモノだった。無味乾燥な器械運動ではなく、そこには芸術的な美しさがあった。ここでいう美しさとは、大道芸人の技そのものに内包する美しさだ。決して、音楽や照明や衣装によって演出された美しさを指しているのではない。

 また、最高難度の技を披露するからこその、もう一つのエンターテインメントが大道芸にはあった。
 それが、スリルだ。
 技が無残にも失敗するという可能性が大いにあるからこそ、スリルという娯楽が生まれる。簡単な技ではいくら完璧に演技しようとも、この娯楽は手に入らない。フィギュアスケートの浅田真央選手が試合でトリプルアクセルを跳ばないと宣言したならば、僕らはきっと落胆するだろう。トリプルアクセルに入る直前のハラハラ感(スリル)を味わえなくなるのだから。このスリルという愉しみは、演技全体の出来不出来とは一切関係のない、独立した愉しみである。
 また、スリルこそが、サーカスを生(ナマ)で観賞する醍醐味でもある。仮に同じ演目でも、録画で観たのでは、その愉しみは大いに減殺されることだろう。
 スリルという単語を広辞苑で引くと、「さし迫る危険の中に感ずる楽しさ」とある。スリルとは、失敗に対する「恐怖」などでは断じてない。「楽しさ」だ。
 そして、その危険が、自分にではなく他人にさし迫っているならば、愉しみは一層大きなものとなる。
 人間は残念ながら、他人の不幸が大好きだ。他人の失敗が愉快で堪らない。だから、僕ら観客は心の片隅でこうも思っている。
 ブザマにシッパイしたらオモシロイな――と。
 本来、サーカスの本質はここにさえあったのだろう。人間を巨大な箱の中に入れ、何本も巨大な剣を刺していく。きゃ~怖~い、などと言いながら、心の裡ではガッツリ期待しているはずだ。うわうわ、箱の中の人間がホントに剣で刺されて死んじゃってたら、それはそれで面白いじゃん、と。
 人権なんてモノが存在しない前時代では、綱渡りのロープの下にネットなど張っていなかった。失敗したら演者の転落死が観客の娯楽になるだけだ。浅田選手がソチ五輪で大コケしてもそれはそれで面白いと、みんな、絶対、数パーセントは思っていたに違いない。(僕はそんなこと微塵も思ってなかったけどね! ソチ五輪前後のツイート読んでもらえば分かると思うけど。)
 前時代の綱渡り芸人や浅田選手ほどではないにしろ、数百人、数千人の観客の視線が一身に自分に集まる中、技を失敗するというリスクは、僕ら凡人には想像すらできないものだ。どれほどの赤っ恥をかくことになるのか。仲間からの信頼は? シルク・ドゥ・ソレイユとの契約はどうなる?
 一人の大道芸人の人生が、その瞬間に掛かっている。彼らはそれで生きているのだから。
 ワクワクする。
 ハラハラする。
 ドキドキする。
 こうしたスリルが頂点に達したとき――結果が出る。

 成功だ。
 成功だ。
 成功だ。
 奇跡のような出来事が目の前に現れている。
 先ほどまでの下卑た好奇心など、一瞬で吹き飛んでしまう。
 ただ、目前の演技に圧倒される。
 自然と声が漏れる。その声は他の観客の感嘆の溜息と一つになって、会場全体がどよめく。さざなみのような拍手が――演者の集中力を乱さないように控えめな拍手が――起こる。
 十分に技を見せつけた後、演者は静かに技を終える。そして、観客席を見上げる。
 爆発的な拍手は、ここで起こる。指笛が鳴らされる。賞賛の声を高らかに響かせる人もいる。
 演者はやり切ったという満足感と共に、舞台を去っていく。

 美的な感動は、下卑た愉しみなど簡単に凌駕してしまう。日本人は浅田真央選手のフリーの演技を見て、泣いた。それと同じようなものだ。

当日の演目。どれも甲乙つけがたい。

 さて、ここまで、「大道芸と舞台芸術の融合」のうち、「大道芸」について語ってきた。従来のサーカスと同じような感動を、シルク・ドゥ・ソレイユでも当然手に入れることができる――ということを語ってきた。
 では、一方の「舞台芸術」はどうだっただろうか? 従来のミュージカルやオペラ、バレエ、その他の舞台芸術と比べたとき、それらを凌駕する、あるいは同程度の質であっただろうか?
 こちらは正直、微妙……だったと言わざるを得ない。
 結果として、「舞台芸術」の最高の域に達しておらず、そのせいで一方の大道芸を邪魔している部分さえあったように思えた。
 あくまで僕個人の感想だ。しかし、帰路、駅に向かって歩く途中、他の観客の声が聞こえてきたことも事実だ。「演目の間の繋ぎみたいなの別になくても良かったよね、演目だけで良かった」という声だった。
「だよねー、分かる分かるゥ」と彼女たちの会話に、つい入っていきそうになった。
 演出家や音楽家(演奏者含む)、衣装デザイン、大道具・小道具、その他音響や照明といった現場の技術スタッフたちの努力は率直に認める。
 しかし、全体として「なんだか微妙……」だったのだ。
 冒頭部分の出演者たちによるダンスなど、「は?」とさえ思った。ラストはカーテンコール的な意味合いも含めて素人的ダンスでも問題ないだろうが、冒頭からあんなゆるゆるダンスを見せられて「は?」と思った。劇団四季や宝塚歌劇の団員からタコ殴りにされそうなダンスだった(いや大道芸や道化師が本業だから仕方がないが、それなら最初からすんなっつう話だ)。
 という話は置いておき、微妙だった要因は主に次の2つにまとめられる。箇条書きで記す。

① そもそも論として、サーカスに過度の物語性は必要なのか。
② 三人の道化師(クラウン/ピエロ)のオーヴォにおける役割は明確だったのか。

 まず、①だ。サーカスに物語性は必要なのか。結論――オーヴォにおいては必要ではなかった。統一された世界観はあって然るべきだが、「純粋で一途な恋の物語」(公式HPより)のような明確な筋書きは不要だった。ぶっちゃけ、どうでもよかった。
 オーヴォでは、物語と各演目(大道芸)との関連性が、極めて希薄だ。物語と大道芸が分断されてしまっている。それならば、「虫の世界」という世界観は維持したままでいいので、物語的要素はバッサリ捨ててしまっても一向に構わない気がした。
 (大道芸の)演者は、それぞれ、クモやアリやコオロギといった役どころを演じつつ大道芸を行うのだが、それらクモやアリやコオロギが、主役の虫たち(三人の道化師が演じる)とどのような関係なのかすら、まったく不明だった。各演目が続く中、合間合間に、並行して、どうでもいい恋物語やらが進行するので、どうしても集中力が分散されてしまう。
 ミュージカルやオペラならば、見せ場の歌やダンスと物語性は必ず渾然一体となっている。歌やダンスは物語と切っても切れない関係だ。その点を見習うべきだと思った。見せ場の大道芸と全体の物語が、余りにも分断されすぎている。

 ②に移る。三人の道化師の役割が意味不明な件だ。
 本来のサーカスにおける道化師の役割は明確だ。「緊張の緩和」役である。サーカスで行われる各演目は、前半でも述べたように、非常な緊張感を伴うものである。演者の緊張感が否応なく観客に伝染する。そんな演目が続くと、観客は疲れてくる。また、刺激にも慣れてくる。だから、各演目の合間に、観客の緊張を緩和し、前の演目から受けた刺激を一旦冷やし、フラットな状態で次の演目に臨ませる役割として、道化師(クラウン/ピエロ)が必要とされる。緊張と緩和は、一定程度ボリュームのあるコンテンツならば、絶対に必要な要素なのである。
 さて、オーヴォの三人の道化師である。そもそも、どうして三人も必要なのかが不明なのだが(恋物語にしたいのならば二人で足りる。二人で足りないのは脚本家もしくは道化師に難があるからだ。天才的な脚本家と道化師なら、たった一人で恋物語をコミカルに演じ切ることだって可能だったろう)、この三人が観客の緊張を緩和することに一役立っていただろうか。答えは否定的にならざるを得ない。
 まず第一に、「言葉を話せない」という大きな弱点があった。さらに、三人は単なる道化師ではなく、物語の進行役も務めていた。ハードルが高い。(さらに言えば、道化師が三人もいるので、三人共に感情移入をさせなければならず、さらに難易度が上がる。感情移入とまで行かなくとも、親近感を得られないことには、観客を笑わせるのは難しい。お笑いの基本だ。登場人物への興味が三人に分散してしまうので、その分、各キャラクターへ親近感を抱く時間も長くかかる。やはり、道化師・物語進行役は一人で十分だったろう。)
 話芸が使えない。とすれば、パントマイムを用いるしかない。しかも、道化て客を笑わせると共に、物語の筋書きも進めなければならない。ここにおいて、道化師は単なる道化師ではなく、優れたパントマイマーでもあらざるを得ない。で、優れたパントマイマーだったのかと言えば微妙で、だから物語の筋書きが掴みにくく、物語の筋書きを追おうとすればするほど集中力を要し、緊張が緩和できない。そして、優れた道化師だったかと問われれば、これも微妙で、「お笑いライブで無理に笑わされてる感」が否めなかった。愛想笑いというのは、想像以上に気力体力を使うものである。そもそも、道化師が大道芸の演者と同じラインに立ってはいけない。「笑わせないと大失敗だ」などと思って自分を追い込んでしまうと、その緊張が客に伝わってしまう。「時間稼ぎですいませんね」という自虐的なスタンスが道化師には最初から必要とされる。道化師にプライドは必要ではない。あってもいいが、それを観客に悟られてはいけない。それで客も安心して道化を観賞できるのだ。大道芸を観る時と同じ姿勢に客をしてはいけない。隣の客と喋りだして自分の道化なんて観ていない、くらいな心持ちが丁度いいのではないだろうか。
 そもそも、道化師に物語の進行を託すというのが間違っている気がする。というわけで、①の結論も強化される。サーカスに物語性は不要だ。

 それ以外の演出については、概ね満足だった。
 まず、舞台美術だ。
 ショーが始まる前、舞台には巨大な卵が設置されている。そもそも「オーヴォ」とは、どこかの国の言葉で「卵」を意味するらしい。その卵は舞台を埋め尽くすほどに大きい。観客が会場に足を踏み入れると、真っ先にその「オーヴォ」が目に入る。卵の殻の内側では、照明が断続的に明滅している。その光に合わせ、ドクンドクンという効果音が響く。こうして、今まさに誕生しようとしている生命の鼓動を表現しているのだ。そしてショーの始まりと共に、卵の殻が割れ、強烈な光が会場を包み、舞台には虫たちが溢れ出す。この冒頭の演出は面白かった。観客の期待感と命の鼓動が一体となり、始まりと共に両者が爆発する。
 次に、特設会場の天井からは、巨大な花が二つ、会場を見下ろしていた。〈巨大な〉と言っても、「昆虫」である演者たちとの比率で考えれば、巨大というわけではない。「小さな昆虫」が人間サイズに巨大化したのに合わせ、舞台背景である花も巨大化したに過ぎず、昆虫と花の大きさの比率は現実世界のそれと同じだ。卵や花に限らず舞台セットは押し並べてジャンボサイズであり、このおかげで観客も自然と虫の世界に入っていける。さて、この花は、なんと可動式である。通常は、蕾(つぼみ)の状態なのだが、虫たちの感情の高まり(歓喜や愛)に合わせ、その蕾がゆっくりと開いていく。満開となった花は、いっそう鮮やかに舞台を彩る。可動式のセットは今や舞台の世界では定番なのかもしれないが、その目玉のセットを巨大な植物にすることで、人間が演じる〈虫たちの小ささ〉を逆に表現し、さらには虫たちの感情までも表現していたのは巧い演出だったと思う。

 音楽は歌も含めて生演奏だった。それも当然で、録音済みの音楽に大道芸人たちがタイミングを合わせるのは極めて難しい。むしろ大道芸の動きに演奏者がタイミングを合わせる方が容易だ。単純なドラムロールやシンバルなどを含め、音楽は大道芸を盛り上げるために欠かせない要素だ。調(長調/短調)、テンポ(曲の速さ)、ダイナミクス(強弱)などによって多様な表現ができる。大道芸が基本的に視覚で愉しむエンターテイメントである限り、照明での演出には限界があって(例えば、絶望を表現しようと照明を暗くしたら演技が見えないかもしれない!)、そういった意味で音楽の力は重要だ。ただ、やり過ぎは禁物で、大道芸のレベルに音楽も合わせるべきだと感じた。音楽に大道芸が食われて(負けて)しまっている部分もあった。音楽に限らず過剰な演出は、大道芸本来の魅力を損なう。

 最後に衣装について。パンフレットやHPで事前に予習していないと、何の昆虫か分からないものも多い。大道芸を愉しむ上では問題ないのだが、「オーヴォ」という作品を愉しむ上では知っておいて損はない。このことからも分かるように、衣装はリアリティよりも芸術性重視だ。演者の身体の美しさ(柔軟性や筋肉美)を損なうことなく、むしろそれを強調するように、芸術的なデザインが施されている。何の虫かは分からないが、人間や現実の虫そのものでないことは確かで、サーカス特有の〈異界性〉は十分表現できていた。

記念撮影用の「オーヴォ(卵)」。

 サーカスを観るのは、子どもの頃以来だった。世の中には様々な驚きが満ちているが、歳と共にそれらの驚きにも慣れてくる。そういった意味で、今回、人間の身体的能力の限界をまざまざと見せつけられ、忘れかけていた新鮮な驚きを再び手に入れることができた。
 一方で、サーカスはどこまで行ってもサーカスで、それぞれの大道芸(身体技)にこそ魅力があり、それ以外の演出(特に物語的要素)は控えめであるべきだと率直に感じた。シルク・ドゥ・ソレイユは、オーヴォの公式HPによれば、

 人間の持てる能力の限界まで追求したパフォーマンスと、生演奏、照明、舞台美術、衣装、振付、ストーリーに至る全てにこだわり、高い芸術性の融合が、世代と国境を超え世界中から賞賛され続けている。

 とのことだった。
 大道芸と舞台芸術の融合について、今回のオーヴォを観る限りでは、期待を上回るものではなかったが、サーカスというエンターテイメントの神秘性を演出する上で、こういった方向性のものはまったく初めての体験であり新鮮だった。
 やはり、サーカスのテント内は、現実世界から切り離された「小さな異世界」であるべきだ、という思いを強くした。その〈異界性〉を表現する方法の一つとしてシルク・ドゥ・ソレイユは芸術性を選択したわけだが、次回は、別の団体で、ごりごりのサーカスを観てみたい。動物芸やマジック、そして愉快なピエロ――。舞台芸術の要素を極力排し、「人間の技」によって、異世界に連れて行って欲しい。それには、まさに「人間離れした」人間の技が一層必要とされるのだろう。

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