【雑記】スクルージ爺さんとブログの方向性について考える。

珍しく雪が降る。
新雪がうっすらと積もっていた。
人影はなく、僕の足あとだけが残った。


 明けましておめでとうございます。

 何が「おめでとう」なのか良く分からない。僕は何も変わっていないし、世界も大して変わっていない。あいかわらず人々は愛や憎しみといった不確かな感情に支配され、殺し合ったりセックスしたり、負け犬に石を投げつけたり、している。人々が思い描いていたユートピアのような近未来は訪れず、2015年中に訪れることも、まずない、だろう。むしろ人類は着実に破滅へと向かっている――気がする。
 世界人口は今も増加傾向にある。発展途上国は新興国となり、代表格である中国のGDPは随分前に日本を上回った。ホモ・サピエンスは増殖の一途を辿り、それぞれの個体もより貪欲となった。一方で、資源は有限である。資源を巡る同種間の争いは一層激しさを増すだろう。
 その過程で、僕らのような弱い個体は、自然と淘汰されていくだろう。
 僕ら負け犬の先行きは、暗い。

 他の個体と接触を持つことは、競争社会に身を投じることと同義であり(なぜなら全員が完全に平等というユートピアのような社会は今後も存在しないから)、それは僕ら負け犬の幸福度を下げる可能性が高い。よって、僕らは一人を好み、一人に耐え得る能力を身に付けてきた。勝ち組が社交性に磨きをかけている横で、僕ら負け犬は自室に篭もり一人を楽しむ工夫を一人で色々と生み出してきた。
 その結果が「素人童貞」「友人0」の現状である。自然の流れだ。この結果はなんら不思議ではない。
 そしてこのまま行けば、僕らを待ち受ける未来は、間違いなく、孤独死だ。


 このブログは、孤独な負け犬系男子が、孤独な負け犬系男子のまま、幸福になることを目指すブログとして、開設された。
 孤独死が不幸だと誰が決めたのだろうか。孤独な人生が不幸だと誰が決めたのだろうか。孤独であっても幸福を手に入れられるのではないか。それを証明することこそ、このブログの究極の目的だ。

 だがしかし、僕のこの価値観は常に揺さぶりをかけられることになる。
「そんな厨二病臭いことホザいてないで、さっさとコミュ障なおして、外に出ろよ。その方が幸せだぞ」
 こんな直截的な台詞を特定の誰かに面と向かって投げつけられるわけではない。だが今日も、様々なメディアが、本やテレビやスクリーンの中で叫んでいる。
「孤独は不幸だ。孤独死は絶望だ。〈他者との人間的つながり〉こそ至上の幸福だ。さあ、君も〈心の窓〉を開いて、他者を受け容れよう」
 家族愛や異性愛や友情への賛美を歌い上げる物語の、なんと多いことか。
 一人を楽しむ最もポピュラーな方法は、読書やテレビや映画だろう。しかしそこには、僕の価値観を否定し、そればかりかヒューマニズム的な価値観への転向を迫る教条主義が含まれていることが多々ある。

 ヒューマニズム的な物語に接した後の僕は、心がほっこりすると同時に、いつも言いようのない違和感に襲われる。プリンを食べたら上にかけられている黒い液体がカラメルシロップではなく醤油だったというような、違和感。
 それは言うまでもなく、価値観の齟齬から生ずる不快感だ。
 この不快感とどう向き合うかという問題は、このブログの方向性という根本的な問題に繋がり、僕がこれからの人生をどう生きていくかという最も重要な問題とも繋がっている。


 こんなことを考える時間がクリスマスを前後して増えた。
 それはもちろん、久しぶりにヒューマニズム的な物語に多く接したからである。
 クリスマスの時期になると、街には煌びやかなイルミネーションとともに人間愛が溢れる。吐き気がするので詳述はしないが、これは間違いない事実だ。
 同じように、クリスマスを題材にした物語にも人間愛が溢れている。その筆頭格は、なんと言っても『クリスマス・キャロル』だろう。イギリスの作家ディケンズによる小説である。その主人公〈スクルージ〉が、クリスマスの数日前、僕の家を訪ねてきた。そして今もいる。(スクルージ爺さんは、俳優の市村正親に似ている。)




 『クリスマス・キャロル』を知らない(忘れた)方のために、スクルージ爺さんを紹介しよう。
 爺さんは、冷酷な吝嗇家だった(「だった」ということは、今はそうではない)。
 〈マッチ売りの少女〉のような貧民が何人路上でくたばろうが、スクルージ爺さんにとって知ったことではなかった。〈少女〉はマッチの灯りに、クリスマスのご馳走だけでなく、「家族との温かな食事」を夢見たが、スクルージ爺さんにとって後者は不要だった。スクルージ爺さんにとっての妻、子ども、両親、恋人、親友は、「金」だった。金こそ、彼の愛する唯一のものであり、彼の行動原理はすべてが金だった。その絶対的な存在に比べれば、他人の存在など、道端に転がる小石と同じだった。周囲の人々が不幸になろうが飢え死にしようが、彼にとってはまったくもってどうでも良かった。〈少女〉がスクルージ爺さんにマッチを差し出してきたならば、彼は「邪魔だ、どけ」と冷たく言い放って、〈少女〉の青白く骨張った手を乱暴に払いのけただろう。
 これが『クリスマス・キャロル』で描かれるスクルージ爺さんの人物像である。

《しかし、私は変わったのだ》

 僕のとなりで爺さんが拗ねたように呟く。はいはい、と僕は爺さんに向かって頷いてやる。

 そう、確かにスクルージ爺さんは変わった。
 クリスマス・イブの夜、サンタの代わりにスクルージ爺さんのもとを訪れたのは、三人の精霊だった。曰く、〈過去の精霊〉〈現在の精霊〉〈未来の精霊〉である。この中で爺さんの晩年の人生に決定的な影響を与えたのは、〈未来の精霊〉だろう。精霊は、爺さんに自身の悲劇的な未来を見せつける。すなわち、スクルージ爺さんの孤独死だ。彼が死んで、大いに喜ぶ人々の姿だ。爺さんの最期の時、彼の寝床を訪れる者は鼠や猫の他に一人としておらず、逆に人々は無慈悲な守銭奴〈スクルージ〉の死を祝っていた。
 その場面をディケンズはどのように描写しているか。かなり長くなるが引用してみよう。別に読まなくともいいが、読む者の心に訴えるものがあるはずだ。(なお、『クリスマス・キャロル』はすでに著作権が切れているようで「青空文庫」にて無料で読むことができる)

 彼(引用者注:スクルージ)は考えた、万一この人間(引用者注:精霊が見せた未来のスクルージ)が今生き返ることが出来たとしたら、先ず第一に考えることはどんな事であろうかと。貪欲か、冷酷な取引か、差し込むような苦しい心遣いか。こう云うものは彼を結構な結果に導いてくれた、まったくね!(引用者注:これは皮肉で、「結構な結果」とはつまりは「孤独死」のこと)
「この人はこう云うことで私に親切にしてくれた、ああ云うことで優しくしてくれた、そして、その優しい一言を忘れないために、私はこの人に親切にして上げるんだ」と云って呉れるような、一人の男も、一人の女も、一人の子供も持たないで、彼は暗い空虚な家の中に寝ていた。一疋の猫が入口の戸を引掻いていた、炉石の下ではがりがり噛じっている鼠の音がした。これ等のものは死の部屋に在って何を欲するのか、何をそんなに落ち着かないでそわそわしているのか、スクルージはとても考えて見るだけの勇気がなかった。

(中略)

「この男(引用者注:未来のスクルージ)が死んだために少しでも心を動かされたものがこの都の中にあったら」と、スクルージはもうこの上見てはいられないような気持で云った。「なにとぞその人を私に見せて下さい。精霊殿、お願いで御座います!」
精霊は一瞬間彼の前にその真黒な衣を翼のように拡げた。そして、それを引いた時には、そこに昼間の部屋が現われた。その部屋には、一人の母親とその子供達とが居た。
 その女は誰かを待っているのであった。それも頻りに物案じ顔に待ち侘びているのであった。と云うのは、彼女が部屋の中を頻りに往ったり来たりして、何か音のする度に吃驚して飛び上がったり、窓から戸外を眺めたり、柱時計を眺めたり、時には針仕事をしようとしても手に着かなかったりした。そして、傍で遊んでいる子供達の声を平気で聞いていられないほど苛々していたからである。
 やっと待ち焦れていた戸を敲く音が聞えた。彼女は急いで入口に彼女の良人を迎えた。良人と云うのは、まだ若くはあるが、気疲れで、滅入り切ったような顔をした男であった。が、今やその顔には著しい表情が現われていた、自分ながら恥かしいことに思って、抑えようと努めてはいるが、どうも圧え切れないような、容易ならぬ喜びの表情であった。
 その男は炉の側に自分のためにとって置かれてあった御馳走の前に腰を下ろした。それから彼女がどんな様子かと力なげに訊いた時に、(それも長い間沈黙していた後で、)彼は何と返辞をしたものかと当惑しているように見えた。
「好かったのですか」と、彼女は相手を助けるように云った。「それとも悪いのですか。」
「悪いんだ」と、彼は答えた。
「私達はすっかり身代限りですね?」
「いや、まだ望みはあるんだ、キャロラインよ。」
「あの人の気が折れれば」と、彼女は意外に思って云った、「望みはありますわ! 万一そんな奇蹟が起ったのなら、決して望みのない訳ではありませんよ。」
「気の折れるどころではないのさ」と、彼女の良人は云った。「あの人は死んだんだよ。」
 彼女の顔つきが真実を語っているものなら、彼女は温和しい我慢強い女であった。が、彼女はそれを聞いて、心の中に有難いと思った。そして、両手を握ったまま、そうと口走った。次の瞬間には、彼女も神の宥免を願った。そして、(相手を)気の毒がった。が、最初の心持が彼女の衷心からの感情であった。
「昨宵お前に話したあの生酔いの女が私に云ったことね、それ、私があの人に会って、一週間の延期を頼もうとした時にさ。それを私は単に私に会いたくない口実だと思ったんだが、それはまったく真実ほんとうのことだったんだね。ただ病気が重いと云うだけじゃなかったんだ、その時はもう死にかけていたんだよ。」
「それで私達の借金は誰の手に移されるんでしょうね?」
「そりゃ分からないよ。だが、それまでには、こちらも金子の用意が出来るだろうよ。たとい出来ないにしても、あの人の後嗣がまたあんな無慈悲な債権者だとすれば、よっぽど運が悪いと云うものさ。何しろ今夜は心配なしにゆっくりと眠られるよ、キャロライン!」
 出来るだけその心持を隠すようにはしていたが、二人の心はだんだん軽くなって行った。子供達は解らないながらもその話を聞こうとして、鳴りを鎮めて周囲に集まっていたが、その顔はだんだん晴れ晴れして来た。そして、これこそこの男の死んだために幸福になった家庭であった。この出来事に依って惹起された感情の中で、精霊が彼に示すことの出来た唯一のものは喜悦のそれであった。


 こんな自身の未来を見せつけられて、さすがのスクルージ爺さんも改心するしかなかった。クリスマスの朝、爺さんの人格は180度変化した。〈マッチ売りの少女〉のような弱者には金を施し、知人を家に迎える顔は眉間に皺を寄せた厳しい顔つきではなく温和な笑顔だった。
 爺さんは人生の晩年になって、ようやく孤独の悲しみに気付いたのだ。他者との〈人間的つながり〉の重要性に。

《君は私のように愚かではないはずだ。精霊の力など要らないだろう》
スクルージ爺さんが僕のとなりで言う。
《既に気付いているんだろう? 孤独死が決して幸福な死に方ではない、ということに》

 確かに薄っすらと感じている、のかもしれない。
 先ほど僕は「物語と僕の価値観の齟齬」が不快感の原因だと述べたが、実際には「僕の中の二つの価値観の葛藤」が不快感の正体なのだろう。
 孤独を肯定する自分と、孤独を否定する自分。
 二人の僕が、僕の中で争っている。

 孤独肯定派の僕が、爺さんに反論する。
 自分が死んだ後、孤独死した部屋の中で自分の死骸が鼠や猫に齧られようが、別にいいよ。僕は死んで、とうに感覚も感情もなくなっているのだから、自分の死骸がどう扱われようが、自分の死がどう思われようが、どうでもいい。

 スクルージ爺さんがすかさず再反論を試みる。
《違う! tarukichi君は、もう一度、私の物語『クリスマス・キャロル』を読むべきだ! 真の不幸は死の場面にあるのではない、私の生の中にこそあるのだ!》
 あのクリスマス・イブ以来、すっかり温和になった爺さんが声を荒げるのは珍しい。
 やはり、孤独死は不幸なのか、と僕は思う。「孤独死」という事実そのものは幸でも不幸でもない。が、その背後にある彼の人生は、不幸だ。
 孤独否定派の僕は、スクルージ爺さんの力強い言葉に、しきりと頷いている。

 だが、肯定派の僕は納得しない。
 本当にそうだろうか? 大長編ドラえもん「のび太と鉄人兵団」で、惑星メカトピアの科学者は言った。「アムとイムに競争本能を植えつけたのが間違いだった」と。ロボットたちは、この競争本能によって進化を加速させたが、結局ユートピアを造ることはできなかった。
 人間の歴史も、アダムとイブの時代から、互いを傷つけあう競争の歴史だ。互いに切磋琢磨し合う中で人類は進歩してきた。だが、人間同士の苛烈な競争の中で、弱者や負け犬は、疎んじられ、虐げられ、支配され、傷つけられ、殺され、排除されてきた。そうされるべきだった。競争の結果が、勝者と敗者で同じならば、最初から競争などしなければいい。
 人間社会は本来的に「食うか食われるか」の弱肉強食の世界だ。本来、人間同士の関係は対立関係にある。『クリスマス・キャロル』で盛んに賛美されているような、家族愛や哀れみの情といった博愛主義的関係など、弱者や負け犬同士の傷の舐め合い、もしくは、弱者や負け犬どもの勝者や勝ち組に対する非論理的な要求(例えば富の再分配)を正当化するための情緒的道具でしかない。
 そうだとしたら、負け犬にとって「孤独こそがユートピア」なのではないのか? 誰からも疎まれず、虐げられず、傷つけられない、「他者と関わらない生き方」こそが、平穏を手に入れる唯一の方法なのではないか?
 スクルージ爺さんは金持ちの強者だったからこそ、人格を温和にする「だけ」で、他者に受け入れられたのではないだろうか。




 爺さんと僕は右手を顎の下に持っていき、「考える人」のポーズをとる。
 誰も喋らない。
 しばしの沈黙の後、スクルージ爺さんがゆっくりと切り出した。
《確かに、一理あろう。人々が互いに助け合い、その関係の中で人々が真に幸福だったならば、以前の私のような男が現れることもなかったはずだ》
 僕の部屋は静寂に包まれ、窓の外では雪が降り出す。
《コーヒーでも淹れてこよう》と爺さんが静けさを破るように言って、台所へと席を立つ。
 どうやら勝負が着いたらしい。結論は出た。
「負け犬は孤独に生きた方がより善い人生を送れる」。


《コーヒーと一緒にチョコレートはどうだ》
 爺さんが運んできた盆には、白い湯気を立てる二つのコーヒーカップと、銀紙に包まれた二枚の板チョコがある。それを見て僕は思い出す。
 〈チャーリー〉って貧乏だったよなあ、絵に描いたような貧困家庭の男の子だった。痩せぽっちで薄汚れた服を着て、チョコレートの一枚も簡単には買えない。
《そうだな、しかしチャーリーは家族に恵まれていた》と、爺さん。
 〈チャーリー〉は言うまでもなく、『チャーリーとチョコレート工場』の主人公だ。
 そうさ、ボンビー家庭の痩せっちょ野郎のくせに、夢の菓子工場の所有権より家族を選んだ馬鹿野郎だ、と孤独肯定派の僕が言う。
《違うぞ、tarukichi君。彼は馬鹿ではない。実に賢い子どもだった。食べ切れないほどの甘い菓子類の山も、孤独を癒す慰めには、決してならん。そのことをあの若さにして承知していたのだ》
 そう言って、スクルージ爺さんは銀紙を剥いて、板チョコをぽきっと齧る。
《うまい》





 よく言うわ、それならデラとジムの夫婦はどうだ。これこそ馬鹿だ。いわゆるバカップルってやつそのものだ。
 結論が出たと安心し切っていたのに、話を蒸し返されて、孤独肯定派の僕は子どもっぽく爺さんに食ってかかる。
《私に噛み付くよりも、君もチョコレートを一口齧り給え》
 爺さんがもう一枚の板チョコを僕に差し出す。僕はそれを、ぽきっと齧る。たった一かけらなのに、甘さが口の中いっぱいに広がる。
 うまい。
《もちろん、デラとジムも、馬鹿などではない》と、爺さんは言う。《現に、この物語のタイトルは『賢者の贈り物』ではないか》
 『賢者の贈り物』は、ある夫婦のクリスマスの物語だ。妻は夫のために自分の長い髪の毛を切って売り、その金で夫が持つ懐中時計用の鎖を買う。一方、夫は妻のために自分の懐中時計を売り、妻の長髪に似合う髪飾り(櫛)を買う。結局、双方のクリスマスの贈り物は、両者にとって無用の長物となったわけだが、作者のO・ヘンリーは、次のように物語を締めくくる。

 今日の賢者たちへの最後の言葉として、こう言わせていただきましょう。 贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。 贈り物をやりとりするすべての人の中で、 この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。 世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。 彼らこそ、本当の、東方の賢者なのです。

 どれほど高価な贈り物も、自己犠牲や夫婦愛に比べれば、価値が劣る。そのように、この物語は言っているのだ。
(なお、『賢者の贈り物』も著作権切れのため青空文庫にて無料で読める。)






 虫唾が走る。虫唾が走る。虫唾が走る。
 孤独肯定派の僕が、狂ったように喚き出す。
 ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな。
 なんだよコレ、こんな美談ばっか集中的に俺に聞かせてどうしたいんだよ。世の中、こんな、それこそ甘ったれた美談ばっかで構成されてねえんだよ。こんな、脳味噌足りないクソ餓鬼向けの安っぽい小説をいくら読んだって、俺の主義は変わらねえんだよ。現実に存在しないような話だからこそ、物語は面白いんだろうが。アダルトビデオが面白いのも、「超絶○姦! 100人連続中〇し!」みたいな、現実にはありえねえ企画設定があるからだろうが。いいか、現実と物語の間には両者を断絶する明確な線が引かれてて、物語が現実に影響を及ぼすなんてことは一切ねえんだよ。クソが。現実の人間は、物語の中の人間のように、美しくありませんし、愛に溢れてもいませんし、情け深くもありませんし、他者の不幸が最高の幸せみたいな下衆な野郎ばっかなんですよ。もう、止めて下さい。こんな、ヘンな夢物語を聞かせるのは。止めて、下さい!

 完全に錯乱状態である。僕は、スクルージ爺さんが孤独肯定派の僕をこれ以上刺激しないよう、今回のところはお帰りいただくことにした。
 スクルージ爺さん、帰って下さい。
《分かった。しかし、最終的な結論は出ておらん。今年のクリスマスにも、私はやって来るだろう。その時、君の主義主張がどのように変わっているかを楽しみにしておこう》
 爺さんは、静かにそう言うと、窓を開いて、白雪が舞う冬の空へと消えていった。


 窓はしばらく開けたままにしておいた。
 寒かった。
 寒いね、と言い合う人は、僕の傍に誰もいなかった。
 窓から雪が舞い込んできた。今朝のニュースで何十年かに一度の記録的な積雪になるでしょうと気象予報士の若い女が言っていた。僕は、それは困りましたね、とテレビ画面に向かって返事をした。
 みるみるうちに、僕の狭い部屋は雪に覆われていった。家具や雑多な生活用品は、すべて雪の下に埋もれてしまった。
 真っ白だ。
 僕は雪をかき分けて、台所の流しまで辿り着くと、苦労して開けた流しの下から一本の包丁を取り出した。
 そうして、コタツがあった場所にこんもり積もっている雪山の頂で、胡坐を組んだ。
 外で雪がひゅうひゅう舞っている。雪降ろしの作業中に転落して死ぬ人は、今日、何人いるだろうか。包丁を強く握り締めようとしたが、手がかじかんで、うまく力が入らなかった。
 まぁ、いいや。
 僕は、腹、というよりも鳩尾のあたりに包丁の切っ先を当てると、一気に自分の肉の中に深く深く、沈み込ませた。
 抜くときも一気に引き抜いた。ジュルッ、という音と共に、血が、溢れ出した。
 真っ赤だった。
 真っ白な小山の頂から、真っ赤な川が流れる。川は幾筋にも枝分かれし、麓へと流れて行った。
 それはきっと、巨大な氷いちごにも見えただろう。
 部屋の中でも雪がひゅうひゅう、舞っている。


 スクルージ爺さんと空の上で再会した。
 さっき別れたばかりなのに奇遇ですね、と僕は言った。
《tarukichi君、君という男は……》
 爺さんは言葉に詰まったようだった。
《思い詰めてはいかんよ。それが一番良くない。長く悩み続けることに、あまり意味はない。一時間も考えて明確な答えが出ないなら、そんな場合は大抵、何時間、何日、何週間、何ヶ月、何年、何十年、死ぬまで考え続けたって、答えなんか出やしないものだ》
 じゃあ、爺さんはなんで来たんですか、僕のところに、わざわざ。
《もちろん、君を説得するためさ》
 説得って?
《私が、孤独肯定派/否定派のどちらの立場に立つかは、明確だと思うが》
 そうですね。じゃあ、僕は転向しなければならなかったんでしょうね。もっと多くの他者と深く交わらなければならなかった。孤独な負け犬系男子のまま幸福を手に入れようなんて、所詮無理だったんだ。
《私はそう信じているが、それが真理だとは限らない。それはきっと君以外の誰にも分からない。考えたって分からないのだよ、tarukichi君》
 爺……、殺すぞ。
《私を殺したって、君の人生は変わらん。いや、変わるな。より悪い方向へと》
 ……そもそも、ここはどこなんです。天国ですか?
《空だ。雲の上。今もこの雲の下は猛烈な吹雪だ。断じて天国などではない》
 へえ。なんで僕は雲の上を爺さんと一緒になって飛んでるんですか。
《君に伝え忘れたことがあったのだ。そうだそうだと戻ってみたら、君は、自分の身体から抜け出して、部屋の中を漂っていた。漂いながら、寝ていた。爆睡だ。身体を失った君は原子より軽い存在になっていたから、君が眠っている間に私がここまで連れて来たというわけだ》
 はあ。で、その伝え忘れたことと言うのは――。
《いや、もう言ったぞ》
 チッ、そういうのいいから。
《tarukichi君は寝起きが悪いな。分かった、もう一度言おう。

 考えても分からんモンは、分からん。
 行動しろ!

 以上だ》
 はあ……。
《君はまだ、孤独な立場しか知らない。なぜなら、孤独でなかった経験が圧倒的に欠如しているからだ。一度、孤独から離れてみるといい。孤独ではない状態というのを一度経験してみるのだ。その後で、どちらの「体験」がより幸福だったかを考えてみる。いや、考える必要などないだろう。答えは動物的な選好によって瞬時に導き出されるのだから。思索など一切必要ではないのだ》
 はあ。
《分かったのか?》
 はあ。スクルージ爺さんがなんとなく良いこと言ってはるなあ感はあります。
《それで十分だ。さあ、私は物語の世界へ帰る。君も自分の家へ帰れ》
 はあ。
《ね~むれ~、ね~むれ~、はぁはぁのぉ、みぃむね~で~♪》
 爺さんが子守唄を歌い出すと、僕は途端に眠くなり、


 今に至る。
 そのようなわけで、今後は、孤独な負け犬生活をより豊かなものとすると同時に、他者との〈人間的つながり〉のようなものを増やしていきたい。
 その具体的プランは未定だが、方向性は決まったと思う。それに伴い、ブログの方向性も若干の軌道修正を余儀なくされるだろう。
 来年のクリスマス、スクルージ爺さんとどのような対話ができるのか。僕自身も楽しみだ。



(※この記事は旧ブログからの移管記事です。2015年冬up)


スポンサーリンク


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA