【NHK】「ある、ひきこもりの死 扉の向こうの家族」を観た感想――他人事ではなく戦慄。そして、世間体なげ捨て快楽に忠実に生きることを決意。

(とりあえず、まずは、番組で紹介された故人たちの冥福をお祈りしたい。せめて天国では幸福に暮らせていますように……と両手を擦り合わせずにはいられない。)

〇「ひきこもり死」の当事者性について。

●圧倒的当事者の僕、ブルブル震える。

 2020年11月29日21:00。NHK総合にて「ある、ひきこもりの死 扉の向こうの家族」が放映された。

 他人事ではなさ過ぎて、戦慄した。

 これは僕の主観ではなく、第三者から見てもそうだったようで、その日の22:00頃、母や兄から相次いで電話があった。
 内容は「元気でやっているか?」程度のものだったが、この時間帯に電話があることなどまずないから、親たちもおそらくこの番組を見て不安を覚えたのだろう。もしかしたら僕が孤独死している可能性すら脳裏を過ったのかもしれない。
 僕自身は録画で見たのでこの時点では番組の内容を知らず、「趣旨が曖昧な電話架けてくんなボケ」と不機嫌に電話を切ったのだが、なるほど、後から考えれば、彼らが電話を架けずにはいられなかった気持ちも理解できる。

 実際、僕は20代の頃に実家の私室にひきこもっていた経験があるし、ひきこもり脱却後も職を転々としてきたし、今もって恋人はおろか友人や遊び仲間の類も皆無で、コロナ禍の影響でいつまた職を失うか分からないし、明日にでも「ひきこもり」に戻ってもおかしくはない。
 「ひきこもり」に戻って、親の死(すなわち年金の支給停止)と同時に生活の糧を失って、それでも誰にも助けを求められず、「ひきこもり死」を向かえるかもしれない。

 そのような可能性が、僕の被害妄想ではなく、確固とした事実として存在するので、戦慄せざるを得なかった。

●誰もが当事者になり得る。

 とは言え、僕だけではなく、誰にでも「ひきこもり」になる可能性はある。
 このことは、番組内で何度も強調されていた。

 番組には重要な語り部として、「ひきこもり死」した故人(以下、Mさん)の弟が実名、顔出しで出演している。

 生前は、「ひきこもり」の兄を拒絶していたという弟。しかし兄の死後、遺品整理を進める中で、兄の存在について、「ひきこもり」という存在について、内省を深めていく。
 なぜ兄はゴミに埋もれて衰弱死するという無残な最期を遂げなければならなかったのか。弟は考える。苦しくとも考えずにはいられない。血を分けた家族だったのだから。
 弟がカメラの前で独り言のようにぽつりぽつりと吐き出す一語一語は、どれも重い。

 その中で、「ひきこもり」になる可能性は誰にでもあるということを、自身の現況と絡めて語っていた。
 弟はタクシードライバーをして生計を立てているのだが、昨今のコロナ禍の影響で売上が激減したという。以前より長く働いても収入は減るばかり。高齢失職の可能性もちらつく。
 当事者の甘えなどではなく、自助努力だけでは如何ともしがたい状況というものが事実として存在することを、弟は肌で知る。

 そして弟は遺品の中から1冊のノートを見つける。書籍の訪問販売をしていた兄が、見込み客の情報を事細かに記したものだ。
 兄も努力していたのだ。合わない仕事に必死に食らいつこうとしていたのだ、と知る。

 番組は、弟の懐古と遺された資料をもって、Mさんが死に追いつめられていった過程を丹念に追っている。また、そのメインストーリーと並行して、他の「ひきこもり死」当事者たちの実例が簡単に紹介されていく。

 ある60代女性のケースが取り上げられていた。
 彼女は若い頃、国際的な企業に勤めるキャリアウーマンだった。部屋には、海外赴任中に撮影したと思われる写真も残っていた。しかし病気を患って会社を辞めてからは、再び職に就くことはなく、「ひきこもり」続ける。そして、母親が老衰で亡くなり、年金という唯一の糧を失って、彼女は死ぬ。
 自治体の福祉担当者とともに撮影に入ったカメラは、レトルトの冷凍ごはんがテーブルの上に食べかけのまま残されている画を映す。傍には塩の小瓶が転がっている。「彼女にとっては、白米に塩をふることが精一杯のごちそうだったのかもしれません……」と自治体担当者が呟く。
 薄暗い室内の質素にすぎる食卓と、写真の中の若かりし彼女の輝く笑顔。
 その対比が痛々しかった。
 果たして彼女は、再起する努力をしなかったのだろうか。それとも努力はしたが再起できなかったのだろうか。

 僕は自助や努力を決して否定するわけではない(むしろそれらは非常に大事だと思っている)。が、努力と結果を安直に結びつける「努力至上主義」は嫌悪している。憎悪している。努力至上主義者の肢体を捥いで、ほうら僕と同じ速さで走ってごらん、努力すればなんとかなるんでしょ? と言い放ってやりたいくらいに嫌いだ。
 人々は、「努力は大事だが、どれだけ努力しても実現しないことなど腐るほどある」という明白な事実を素直に認めるべきだろう。
 そして、個々人に与えられた条件が千差万別であることにも目を向ける必要がある。ある人にとっては容易なことも、別のある人にとっては多大な困難を伴う行為であったりする。


スポンサーリンク


〇「ひきこもり」は自己責任か社会問題か。

 番組で紹介されていたデータによれば、日本の「ひきこもり」は約100万人。内、半数以上の61万人が40~64歳の中高年者だという。
 「ひきこもり」の中高年者(50代~)の面倒をさらに高齢(80代~)の親がしなければならないという「8050問題」という造語さえ生まれているという。

 「ひきこもり」となる主要因を、当事者に求めるか、社会構造に求めるか。僕の基本的な姿勢は後者であるのだが、とすれば、社会構造の変遷に伴って「ひきこもり」の出現率や年齢層なども推移するはずである。
 番組内では、ある時点における特定地域(日本)のデータしか示されていなかった。それでは、過去や他国との比較はできない。
 そのような研究結果がないか軽くググったのだが、的を射たダイレクトな資料は見つからなかった。
 しかしながら、番組がそのデータを参考したと思われる、内閣府の統計調査「生活状況に関する調査(平成30年度調査)」(https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/r01honpen/s0_2.html)の中で、次のような興味深い一文を見つけた。

ひきこもりの状態になったきっかけは、(中略)回答した者の割合が高かった順に、「退職したこと」、「人間関係がうまくいかなかったこと」、「職場になじめなかったこと」、「妊娠したこと」、「病気」であった。

 「ひきこもり」となるきっかけの第1位が「退職したこと」(29.1%)という社会的・経済的要因であることに注目すべきだ。このアンケートが正しいとすれば、失業率と「ひきこもり」数の間には強い相関関係が見られるに違いない。
 
 そして、昨今のコロナ禍で実感されている方も多いかもしれないが、失業率は個々人の努力で操作できるものではない。
 少なくとも一部の「ひきこもり」は経済状況などの社会構造が生み出していることは間違いないだろう。

 高度経済成長期、バブル、長期低迷期(就職氷河期)、ITバブル、リーマンショック。戦後日本の経済史に沿った「ひきこもり」研究があれば読んでみたいと思う。
 ネットでは見つからなかったが、図書館に行けばそのような研究データがきっと見つかるだろう。

〇「ひきこもり」当事者はなぜ助けを求めないのか。

 番組では、上述の社会調査とは別に、「”ひきこもり死”全国自治体アンケート」を独自に実施している。
 その中で「支援を難しくする最大の理由」を尋ねたところ、「本人の支援拒否」が最大の要因(71.7%)として挙げられた。
 生活保護をはじめとする種々の社会保障制度は、「申請主義」を原則としている。民生委員や社会福祉協議会からの情報で要支援者が見つかったとしても、本人からの申請がない限り、行政は動くことができない。支援を受けませんかと打診するくらいが関の山だ。本人の意思を無視して支援はできない。
 「ひきこもり」の人々の多くは、法的に整備された制度があるにも関わらず、その存在を知っているにも関わらず、自らの死が目前に迫ってきてもなお、それを用いようとしない。申請しない。助けを求めない。
 なぜなのか。
 この不合理すぎる謎が、番組の、多くの視聴者の、僕の、最大の疑問であろう。
(この疑問に比べれば、上述の「ひきこもり」が発生する主要因など取るに足らないどうでもいい問題だ。)

●問題を個人になすりつけるサル社会。

 第1に挙げられる普通に分かりやすい回答は、「他者からの圧力」だ。

◇「閉じる家族」。

 「他者」の最たるものとして、まずは「家族」がある。

 番組に出演したケースワーカーは、「世間的に恥ずかしいと思われる方は多い。隠してしまう方も多い」と語っている。

 Mさんのケースで、弟は遺品の中から自分たち兄弟の父親(故人)の日記も見つけるのだが、その言葉が凄まじい。
 Mさんの父親はこう記している。「(Mは)恥じらいも、世間体も、もう何も考えられなくなっているらしい。これが自分の子供かと思うと涙が出るほどつらい」。
 まさに「恥」の文化に生きる”古き良き”日本人と言えるだろう。

 また、周囲に助けを求められず「ひきこもり」の息子を亡くした母親(75才)のケースも紹介されていた。
 49才で衰弱死した息子は家庭内暴力も振るっていたらしく、彼の意向に沿わない行動を母親がとることは難しかったのかもしれない。
 
 とは言え、言葉が不適切かもしれないが、「家族」がいることで逆に「ひきこもり」という問題が「隠蔽」されている事実は否めない。
 本来「公助」の対象となるべき人間が、「家族」という私的な空間に覆われてしまっている。

 さらに恐ろしいのは、彼ら家族の規範意識が「ひきこもり」本人に内面化されてしまうことだろう。

 昨今、「毒親」という造語が流行っているらしいが、「ひきこもり」たちは、冷静に・冷徹に自分の親をジャッジし、彼らが本当に自分にとって有益な存在かを判断する必要がある。
 親の行動の動機が自己保身にあるのか、はたまた本当に自分のことを慮ってのことなのか。それはここではさして重要ではない。
 事実として、「『ひきこもり』脱却に有益な存在か否か」を冷静に判断する必要がある。有益でない(例えば外部からの支援の手を阻んでいる)と判断すればスパンと切り捨てる覚悟が必要だ。
 自分が生活保護等の支援を受けることで親がどう思うかなど知ったことではない。それは彼らの問題で、彼らが解決すべき問題だ。
 まずは自分の命が最優先。自己保存こそ全生物の至上命題だ。
 ――というくらいの気概で臨まなければ、”家族の情”が邪魔をして生への道が閉ざされてしまうだろう。

 「閉じる家族」に関係して、数年前のテレビドラマ「家族狩り」を思い出した。興味がある方は観て欲しい。直木賞作家・天童荒太の同名小説が原作らしいので、それを読むのもいいかもしれない。

◇”世間様”とかいうイミフな社会規範――特殊性ガン無視の一般論の押し付け。

 「家族」という障害をクリアしたとしても、その外にはもっと多くの「他者」が存在する。
 彼ら「他者」が「ひきこもり」たちの生きる途を阻害する。

 「生活保護の申請」などという自分とは無関係と思える制度で考えるからピンとこないのであって、例えば「有給休暇の取得」で考えれば、いくら法律や制度が整っていようと、それを実質的に利用できなくさせる(極端に利用しにくくさせる)「他者」の存在が、肌感覚で理解できるのではないだろうか。

 納期の差し迫ったプロジェクトがあって、周囲の同僚は上司も部下も老いも若きも男も女も既婚者も未婚者も皆が連日のように深夜まで残業している――そんな職場にいたとする。
 さて、この場面で「なんかダルいんで明日、有給とりますね」などと言える人間がどれほどいるだろうか。あなたは有給を切り出せるだろうか。
(ちなみに労働基準法§39では有給取得に理由の提示を求めていない。つまり、一切ダルくなくても元気モリモリでも有給は取得できる。法律上は。)

 去年、『わたし、定時で帰ります。』という小説及びそれを原作としたドラマが微妙にヒットしたが、主人公は上記のような状況のもとで平然と有給をとってしまえる女性社員だ。
 彼女がフィクションのヒロインとなり得るのは、「普通の人ができないことをやってしまう」人物だからである。誰でもできることしかやっていなければヒロインにはなれない。
 すなわち、前提条件として、「上記のような状況の下では、普通の日本人は有給取得を申請しない(できない)」という暗黙の合意があるのだ。

 なぜ、法律・制度は整っているのに、普通の日本人は有給取得を申請できないのか。
 それはもちろん、「他者」の存在があるからだ。
 ”世間様”とか”空気”などというあやふやな言葉を用いるから主体が曖昧になるのであって、現実問題として、この場面で有給取得の申請を阻害しているのは、確固として実在する「他者」だ。同僚一人一人だ。AさんでありBさんでありCさんでありDさんであり……。
 有給申請することによって予想される彼ら「他者」の有形無形のネガティブな態度を恐れて、普通の日本人は有給を申請しないのである。

 「私」は「他者」のネガティブな態度を恐れて合理的な選択ができないのであるが、それでは、なぜ「他者」はネガティブな態度をとるようになるのか。何が「他者」の攻撃性を刺激するのか。
 攻撃性の発露は、端的に自己防衛の顕れである。「私」の選択が「他者」の何かを傷つけたのである。
 何を?
 
 おそらくだが、「私」が毀損したものは「他者」の「平等性感覚」であろう。

 類人猿に共通する生得的感覚として「平等性の原理」というものが存在するらしい。
 チンパンジーを2匹連れてくる。1回目は、双方にエサを見せはするものの与えない。2回目は、個体Aにはエサを与えるが個体Bにはエサを与えない(Aにエサを与えるところはBに見せる)。「個体Bにエサを与えない」という条件は1回目も2回目も同様であったにも関わらず、Bのフラストレーション反応は2回目の方がより激しかったらしい。
 「個体Aだけにエサを与える」という”不平等”な扱いが、個体Bの不快指数を高めたのである。
 他にもこんな実験を聞いたことがある。それはチンパンに電気ショックを与える実験で、単独で電気ショックを与えるときと、2匹のチンパンを並べて同時に電気ショックを与えるときとでは、後者の方がショック反応が弱かったらしい。
 「他者も平等に苦痛を受けている」という状況が、それぞれの個体の苦痛を和らげたのだ。

 有給を取得した「私」に対して向けられる「他者」の憎悪は、基本的にこの「平等性原理」で説明がつくように思われる。
 「皆が”等しく”苦しんでいるというのに、貴様”だけ”逃げることは許さんぞ」といったような。

 生活保護等の福祉制度もこれと同じだ。
 ”世間様”を構成する「他者」の大多数は勤労という苦役に喘いでいるのであるから、その地獄から”特別に”救済されているように見える被支援者が攻撃の対象となるのは自明の理である。
 社畜の我々からすれば、生活保護受給者等の存在そのものが、自身の平等性感覚を毀損するストレス要因なのである。

 なお、ここでいう「平等」とは、あくまで「相対的平等」を指す。
 いくらブラック企業に洗脳された社畜奴隷とはいえ、さすがに、幼い子どもや重度障碍者にまで働けカス!と罵ることはしない。「子どもや重度障碍者は働かなくてもいい存在」だと認識している。
 「働かざるもの食うべからず」という原則を絶対的に適用することはせず、個々の相対的な立場に沿った取り扱いを行っている。

 問題なのは、個々の状況が他者からは判別しずらいということだ。
 一見して明らかな特殊事情を抱えた者に対しては、チンパンすら”憐憫の情”を発揮して、自身との不平等な取り扱いを許容する。先の実験でエサを与えられる個体Aが赤ちゃんチンパンジーだったとしたら、おそらく個体Bの発狂の程度は抑えられただろう。

 一方で、「分かりずらい特殊性」は基本的に気付いてもらえない。無視される。そんな特殊性など端からないものとして扱われる。
 ASDとか鬱とか吃音とか、就職氷河期世代とか経済の衰退した地方に住んでいるとか両親に介護が必要になったとかね。

 ひとつ思考実験をしたい。
 ギャル曽根という大食いタレントがいる。彼女の”大食い”が芸ではなく、「生存上必要な行為」だったとしよう。そして彼女の居住地を大規模な震災が襲ったとしよう。
 ギャル曽根さんは避難場所に指定された小学校の体育館に赴く。列に並んで食料の配給を受ける。成人女性の一般的な体型をしたギャル曽根さんを見て、自治体担当者は「一般的な成人女性に必要とされるカロリー分」の食料を彼女に渡す。
 が、しかし、ここでの仮定は「”大食い”は芸ではなく、彼女の生存上必要な行為」なのであるから、当然、彼女にしてみれば支給された食料だけではとても足りない。
 ギャル曽根さんは必死に自身の「特殊性」について説明する。が、「この緊急時に馬鹿なこと言ってんじゃない! 腹が減ってんのはみんな同じなんだ!」と担当者にブチギレされる。果たして彼女の運命は……。
 この思考実験における自治体担当者の態度は、特に極悪非道の鬼畜というわけではない。むしろ第三者から見れば、ギャル曽根さんより自治体職員の方が「正義」に見えただろう。
 問題はただひとつ、職員がギャル曽根さんの「特殊性」を理解できなかったということだ。
 ギャル曽根さんの説明が不十分だったのか(情報の不足)、職員が馬鹿だったのか(不可抗力)、あるいは、職員がそんなヘンな状況に対処するのは面倒だと思ったからそんなヘンな人などこの世に存在しないと思い込もうとしたのか(故意)。理由はいくつかあろうが、とにかく彼女の「特殊性」は理解されなかった。
 「特殊性」が理解されない中で「特別の対応」を求めた彼女の行為は、まさに「平等性原理」に抵触する行為だと職員に捉えられたのだ。かくしてギャル曽根さんは、攻撃の対象となった。

 「ひきこもり」や生活保護受給者等に対するバッシングも、基本的な流れは上記の思考実験と同様である。
 人々は、他人が有する「分かりずらい『特殊性』」を理解しない。自分と同じだと考える。自分と同じだと考えている他人が「特別の対応」を受けているのを目にすると、自身の「平等性感覚」が毀損されたと感じ、ストレスが生ずる。結果、その人物を攻撃する。

 避難場所における食料と同じように、地球上に存在する資源も有限なのだから、人々は自身の取り分を少しでも多くしようと、他者の取り分についても厳しく目を走らせる。「不正」に配分を受けていると思しき者を見つければ、袋叩きにするのは当然だ。
 むしろ、競争相手を少なくするために、他者の特殊性に気付きながらも、気付かないふりをして、「不平等は許さない」という大義名分を振りかざし、他者を痛めつけ消しているのかもしれない。

 「他者」が「ひきこもり」や生活保護受給者等を攻撃する理由について、僕は上記のように考えている。

 この理由が妥当なものかどうかはともかく、「他者」(世間様、社会の空気)が、ある種の規範力(強制力)を有していることは明白な事実だ。それに抗えず、「ひきこもり」たちは死へと追いやられる。
 しかしながら、「ひきこもり」当事者は、種々の規範の優先順位を決して間違えてはならない。
 明文化された法律が、”世間の目”などという曖昧模糊としたものに劣後するわけがない。
 現行法の実質的妥当性はここではどうでもよく、事実として「生活保護法」という法律が存在し、日本は「法治国家」なのであるから、自身の環境が法の定める条件に合致するならば、粛々と・淡々と申請を進めるべきだ。
 それ以外の社会規範(家族の情、世間の目、社会の空気、常識、マナー等)は、そんなものまでいちいち守っていては自身の命が危うくなるのであるから、とりあえず無視だ。
 何度も言うが、「自己保存」こそ全生物の至上命題である。実定法より上位に位置する自然法の中でも最上位の規範である、とさえ言っていい。

●「未来に絶望」して死んでいくという不合理。

 他者(家族や世間)の圧力を跳ねのけられたとしても、「ひきこもり」当事者たちの多くはなお、「支援拒否」を選択するかもしれない。
 それは、彼らが死を望んでいるからである。
 「支援拒否」は一種のセルフネグレクトであり、その結果である「ひきこもり死」について、彼らは当然にそれを予期している。
 その上で「支援拒否」を選択するのである。
 これはもはや一種の自死行為だ。
 能動的な行動(飛び降り、首吊り、入水等)を起こして積極的に自殺を図ることまではしないが、自らの生活の糧を断って徐々に衰弱していくことにより緩やかな死を迎えるという消極的な自死である。

 なぜ彼らは死を希求するのか。
 「支援拒否」の2つ目の理由は、「未来に対する絶望」である。

 番組では「ひきこもり死」した故人だけでなく、「ひきこもり」を脱却し社会復帰に向けて奮闘している「ひきこもりサバイバー」たちも何人か出演している。
 彼らサバイバーたちの言葉から、「未来に対する絶望」こそが死を誘発する主因だということが読み取れる。
 サバイバーのひとり(Sさん)は、番組の中で次のように語っている。

「職場から逃げたい、家族からも逃げたい、
最終的には自分からも逃げたい。
自分から逃げるためにはどうするってなったときに、
ああ、もう自殺しかないって考えちゃったんです。
生きることが怖いじゃなく、
生きていくことが怖くなってしまった」

 「生きること」と「生きていくこと」という表現の微妙な違い。このニュアンスを正確に汲み取ることは難しいだろうが、僕の解釈では「現在」と「未来」である。
 Sさんの不安や恐怖は、現に今ある問題に起因するもの(だけ)ではなく、あくまで将来起こるかもしれない「未来」に対してのものだ。

 Sさんが自室に籠って長々と懊悩した挙句、導き出した「未来」は、「快楽よりも苦痛の方が多い」という予測だったのである。
 「生きていく」ことで「快楽よりも苦痛の方が多い」のならば、「死ぬ」という選択は、非常に合理的だ。

 僕は基本的に、「人間は常に、与えられた条件や情報の下で、合理的な選択をせざるを得ない機械人形」だと考えている。
 「合理的な」とは、単純に「快楽を最大化(苦痛を最小化)する」ということだ。
 人間は常に合理的な選択をする。というより、せざるを得ない。その意味で自由意思などない、と考えている。
 ので、「誰にも助けを求めず孤独死する」という”選択”をした故人の行動も、”彼にとっては”合理的だったのだ。

(我々人間にとって合理的でない”選択肢”など端から”選択肢”ではないのだし、我々は常に最も合理的な行動をするしかないのだし、それは事前のプログラミングによって動く機械と実質的には同じなのだし、ということはつまるところ、人間の行為について倫理的に云々意見することは僕を含めて誰にもできないのだし、「支援拒否」という”選択”に対してもその行為者であるところの「ひきこもり」たちを非難したり馬鹿にしたりといったことは決して誰にもできない。)

 問題は、「”彼にとっては”合理的だった」という点だ。
 第三者から客観的に見ると、彼の「支援拒否」という”選択”は必ずしも合理的とは言えない。
 「合理性」は、その判断主体の特殊性を無視しては語れない。彼の視点から考える必要がある。

 「行動経済学」という学問が少し前から流行っている。それに合わせて、「ホモ・エコノミクス(合理的経済人モデル)は幻想だ。人間は不合理な存在だ」といった言説が一人歩きしている。
 しかし僕が思うに、行動経済学は「人間の持つ合理性の限界」を指摘したに過ぎず、「合理性の否定」まではしていない。
 実際、人間の不合理と見える行動に対しては簡単な対処法(ナッジ)によって最適化できる、と行動経済学の内部で説明されている。人間が真に合理的でないのなら、そのような対処法は端から無意味だ。
 無軌道に見えたとしても人間は何かしらの原理によって縛られている。それは事実だ。
 
 日経BizGateにおもしろい記事があった。「行動経済学の落とし穴~人間は本当に「不合理」か~」というタイトルだ。一部引用する。

 似た心理として、目先の利益を優先してしまう「現在性バイアス」や、わずかなリスクでも回避しようとする「確実性バイアス」があります。けれども、これらのバイアス(心理的傾向)をすべて不合理と決めつけるのは乱暴です。人間は長い進化の過程を通じ外部環境への適応を繰り返し、心と体には生存に有利な機能が遺伝的に埋め込まれているはずだからです。

 経済学者の依田高典氏は、現在性バイアスや確実性バイアスについて「やり直しの利かない不可逆な時間の中で、繰り返しを前提とする確率論を適用できない『確実な今』を大事にしなければ、取り返しがつかなくなるという進化論上、最適な戦略だった」と説明します(日本経済新聞社編『やさしい行動経済学』)。

 そうだとすれば、目先の利益・損失に敏感な人間の性質は、進化論的にみればむしろ合理的であり、不合理と呼ぶのは適切ではないでしょう。

行動経済学の落とし穴~人間は本当に「不合理」か~|日経BizGate (nikkei.co.jp)

 「合理性」という言葉(概念)も、時と場合によって中身が都合よく変容される。上記の文章も「進化論的にみれば」というエクスキューズが付いている。
 記事中の「損失回避の法則」の思考実験(『ヘンテコノミクス』という書籍からの引用)において、経済学上、2つの選択肢は無差別である(期待効用が5千円で等しい)。右手左手どちらを選んでも同じなので、「どちらが合理的か」は言えない。純粋な(従来の経済学が念頭に置いている)ホモ・エコノミクスが実際に存在したとしたら、彼は何も”選択”できず、ぼーっと立ち尽くすしかない。
 ところが「合理的」という言葉を、記事の筆者のように「進化論」にまで広げると、右手を選ぶことが「合理的」となる。

 僕が言いたいのも、これと似たような話だ。
 従来の経済学が前提としている「経済合理性のみに従う人間」は、確かに現実に存在しないのかもしれない。が、だからと言って、人間が「合理的ではない」とは言えない。
 人間は何かしらのかたちで必ず「合理的」であろうとする。

 ちなみに、行動経済学が叫ぶ「不合理」に僕が最初に違和感を覚えたのは、「極端の回避性(高中低の3つの価格の商品があった際、消費者は中庸の価格の商品を選びがち)」の説明を聞いたときで、これを「合理的ではない典型例」として教えられたのだが、直感的に、「いやいや、選択にかかるコストを節約しようとしただけで、これはむしろ合理的な行動なのでは……」と強く思ったことを今でも覚えている。
(実際、価格帯の異なる商品の数を3つから4つに増やしたら、「商品を選ぶ」という行為そのものが面倒になって、何も買わなくなる消費者の数が増えるらしい。)
 これも、「選択にかかるコスト」という別の(メタ)要素を加味したならば、「合理的」と判断できる事例だろう。

 ホモ・エコノミクスが現実に存在しないからといって、人間は不合理な存在であると考えるのは単純に過ぎる。
 どの視点から語るかによって、「合理的か否か」の判断は異なる。
 観念的な算盤勘定だけで考えれば不合理と見えることも、もっと広い観点から見れば合理的と言えることが往々にしてあるのだ。

 話を「『支援拒否』を”選択”する『ひきこもり』」に戻す。
 「ひきこもり」当事者にとって、それは合理的な判断である。
 しかし、客観的に見れば、それは合理的な判断とは必ずしも言えない。

 もし、極端な楽観主義者の「ひきこもり」がいたとしたら、「『ハリー・ポッター』シリーズを書いて大儲けしたJ・K・ローリングを知らんのか。あのオバハンは生活保護を受けながらハリポタを書いたんやで。俺も今は生活保護を受けるが、将来大儲けして高額納税者なるかもしれんやん」と考えるかもしれない。

 なぜ、「支援拒否」をし、死に向かう「ひきこもり」たちは、このような考えが少しでもできないのだろうか。
 なぜ、彼らは”未来に絶望”するのだろうか。
 なぜ、「生きていく」ことが怖いのだろうか。
 なぜ、未来には快楽よりも苦痛の方が多く待ち構えていると判断するのだろうか。

(繰り返すが、「支援拒否」を”選択”する「ひきこもり」当事者を責めているのではない。そんな非難など、人間はすべからく機械人形に過ぎないのであるから、無意味だ。
 純粋に、疑問だからである。
 そして将来、僕が万一、「ひきこもり」に戻ったとしても、そんな不合理な”選択”は絶対にしたくないと強く思うからだ。)

 当事者の「合理的判断」が客観的に見たら「不合理」である場合、その原因は、

①判断主体の傾向性
②判断材料(情報)の過誤や不足

が、考えられるだろう。

 ①の「傾向性」という言葉は、カントから流用したのだが、もちろんカントのいう「傾向性」とは別物で、ここでは、上述したように、「観念的な・理論的な・抽象的な・算盤勘定としての合理性」に対比されるところの、「身体的な・動物的な・本能的な・選好としての合理性」を指すと考えてもらった方が適切だ。
 例えば、楽観主義か悲観主義かというのも、これは端的に「過去のチャレンジ回数と成功体験の数の比率」という経験によって決定される部分が大きく、観念的な算盤勘定でどちらかを選ぶわけではないだろう。
 相対的に成功体験を多く積み重ねてきた人ならば楽観主義に傾くであろうし、何度チャレンジしても失敗ばかりだった人は悲観主義に傾くだろう。

 サルが変な臭いのする腐った果実を忌避するように、「知性による合理的な判断」というよりは、むしろ、それこそ上述の記事にもあったように、「種の進化や個々人の成長の過程で体得してきた経験に基づく合理性の判断」と言ったほうがいいだろうか。演繹的に導き出された判断というよりは、帰納的に導き出された判断というか。
 そういった「傾向性(本能や経験に基づく合理性)」が個々人で異なり、かつ、それが「知性が導き出す普遍的な合理性」に優越することがある。そういった場合に、他人から見たら「不合理」な選択が、当事者の「合理的」な判断によってなされるのであろう。

 「支援拒否」を選択する「ひきこもり」当事者たちは、それまでの人生で我々が想像もできないような辛酸を舐めてきたに違いない。彼らが導き出す「未来に対する期待値」は、彼らの「傾向性」によって相当大きくマイナスの方向に捻じ曲げられている可能性がある。

(ちなみに、感受性も人それぞれなので、普通の人なら容易に耐え得る出来事も、ある人にとっては耐えられないことであったりする。
 なお、鬱病などの精神障害の労災認定については、基準が定められており、それによれば「心理的負荷の強度は、精神障害を発病した労働者がその出来事とその後の状況を主観的にどう受け止めたかではなく、同種の労働者が一般的にどう受け止めるかという観点から評価します。『同種の労働者』とは職種、職場における立場や職責、年齢、経験などが類似する人をいいます。」とされており、ここでも特殊性は基本的に無視される。)

 ②の「判断材料(情報)の過誤や不足」は、容易に想像がつくだろう。
 当事者たちが未来を予想して期待値を測る際に、その確率や効用の大きさについて、情報に誤りや不足があったりしては、正確な(普遍的な合理性基準に基づく)判断はできない。
 例えば、「ひきこもった経験があって履歴書に空白期間があると、絶対に就職はできませんよ」などと誰かに言われて、それを信じてしまったとしたら、労働という社会参加によって生きていけるという確率は0ということなのだから、人によっては(労働という形態での社会参加に大きな意義を見出している人にとっては)絶望してもおかしくはないだろう。

 「未来に絶望する」というのは、①や②があって初めて起こる現象だ。
 普遍的な合理性の基準に沿った予測を瑕疵なく行えたならば、現代の日本社会で「未来に絶望する」などあり得ない。
 当事者たちは明らかに、未来を読み誤ってしまっている。彼らの合理性の追求は誤っている。(もちろん、くどいようだが、それは彼らの責任ではない。)

 そもそも、「未来」などという漠然としたもの、誰にも分かるはずがない。それに対して「絶望」するなど、あり得ない。意味が分からない。
 明日、交通事故に遭って即死するかもしれないし、逆に宝クジが当たるかもしれない。
 何が起こるか、その確率は、その出来事から得られる効用は? 生身の人間の処理能力ではとても計算できないことばかりなのだから、そもそも考えること自体が無駄だ。

 逆に言えば、算盤勘定(普遍的な合理性の追求)が不可能だからこそ、直感(傾向性)に頼ることになってしまうのだろう。
 そして、各人が持つ傾向性がたまたま悲観的な性格を帯びていたならば、彼らが死に引き寄せられるのは自明の理である。

 解決策としては、とにかくネガティブな傾向性を徹底的に排除することである。

 そのためには、

①そもそも未来のことは考えない(現在に集中する)。

②考えるにしても、「不確定要素の多い漠然とした遠い未来」のことではなく、算盤勘定が容易にできる「規模の小さなこと」(例えば、それこそ貯蓄や年金や保険といった金銭的なこと)や「直近」のことしか考えない。

③自身のネガティブな傾向性を無理やりポジティブなものに変容させる。

 といった方法が考えられるだろう。


スポンサーリンク


○番組が提示する「ひきこもり死」しないための生存戦略について。

●生存戦略として、「社会参加」は必須なのか?

 「ひきこもり死」しないための上記の生存戦略は、僕が番組を観て考えたことだ。
 一方で番組は、「ひきこもり死」という問題に対する別の解決策を明示している。

 彼らの主眼は、「社会との関わり」にある。
 「ひきこもり死」の問題の本質を「社会からの疎外」と考え、その解決策を「社会的な再受容」に求めている。

 この基本路線に沿って、番組は構成される。
 番組の後半は、「ひきこもり死」した故人よりも、「ひきこもり」となって一度は死ぬことを考えながらもなんとか生き延びた「ひきこもりサバイバー」たちが数多く出演する。
 彼らの生存へ向けたアクションが紹介されるのだが、それが、「家庭でも職場でもない居場所への参加」という、僕からしてみれば少し論点がズレたものになっていた。

 端的に言うと、番組は「ひきこもり」と「ひきこもり死」という2つの問題を混同している。
 番組が提示している「社会参加」という手法は、「ひきこもり」の解決手段であって、「ひきこもり死」を回避する方法ではない。
 もちろん、「ひきこもり」が解決できれば、「ひきこもり死」も自然消滅するのは当然だ。
 しかし、番組の標題に沿うならば、「『ひきこもり』でいながらも、『ひきこもり死』という無残な死を回避するための方法」が提示されなければならない(というか、それこそが提示されなければならない)。

 そもそも僕の考えでは、上述したように、「ひきこもり死」は端的に経済的な問題と自己認識の問題であって、別に「他者」と交わらなくとも、「(能動的な)社会参加」をしなくとも、解決可能に思える問題だ。
 「ひきこもり」であっても幸福な人生を送る(そして幸福な死を迎える)ことは理論的には可能だと思われる。

 また、番組の最後は次のナレーションで締めくくられている。

誰か一人でもこう声を掛けられる世の中でありたい。
生きてるだけで、いいんですよ。

 これも違和感を覚える表現だ。何故いちいち、自己の生存について誰かの許可が必要になるのだろうか?
 他者からのネガティブな評価を恐れるからといって、別にポジティブな評価まで求める必要はない。というか、評価される理由がない。

 そもそも、現行の法制度(憲法§25や生活保護法)は既に、「生きてるだけで、いいんですよ」と明らかに宣言している。であるからして、それ以外の「他者」の承認など生存戦略として必要なのか、非常に大いに圧倒的に疑問である。

(ちなみに、現行の福祉制度を正当化する言説はいくつかあろうが、僕は基本的に民間の保険と同じような理由から、福祉制度に正当性が与えられていると考えている。
 ロールズが『正義論』で流用したゲーム理論のマキシミン(ミニマックス)原理のように、多くの人々はビビりなのであって、最悪の状況を忌避すべく福祉制度という”保険”を支持しているに過ぎない。福祉制度は、誰かが誰かに一方的に何かを与える「恩恵的なもの」では決してないし、また、ルソーの「憐憫の情」のような曖昧模糊としたものを基盤に置くものでもないと思う。)

 番組の後半は、「ひきこもり死」を回避するというよりも、「ひきこもり」脱却へと視点がブレていて残念だった。

(ちなみに、僕も過去に「ひきこもり」の支援サークルや自助グループに何度か参加したことがあるが、「ひきこもり」脱却に向けて、それらはとても有意義だったことは間違いない。
 僕が苦手とする存在は親や教師や上司といった生身の権力者であって、恐れていたのは彼らからの「評価」であったので、そういった上下関係(評価する・されるといった関係)が存在しない場所というのは居心地がよかった記憶がある。
 また、そういった「ひきこもり」支援の団体でなくとも、普通の趣味のサークルや地域活動なども、基本的には上下関係(評価する・されるといった関係)がないはずなので、「ひきこもり」当事者が参加するには敷居が低いと思われる。
 職業訓練やボランティア(疑似勤労体験)を「ひきこもり」脱却の初手と考えている人も多いようだが、それはハードルが高いというか、逆効果だろうなぁと、元当事者としては思う。)

●どう考えても、「社会的欲求」なんかより「基本的欲求」を満たす方が先。

 番組では、社会福祉協議会とは別の支援機関(具体的には説明されていなかった。NPOか何かだろうか)の取り組みも紹介されていて、その支援員の姿勢が興味深かった。

 その男性支援員も当初は、「ひきこもり」当事者たちに積極的な社会復帰を勧めていたそうだ(就労斡旋などを通じて)。しかしながら、ある日、支援していた男性が自死を図ってしまう。
 その後、男性支援員は、要支援者に対して無理に社会復帰を勧めなくなったという。

 番組では、彼が「ひきこもり」の45歳男性を訪ねる場面が映されている。
 彼の手には、エヴァンゲリオンのイラストが描かれたポテトチップスの袋。
 以前訪れた際に45歳男性がアニメなどに興味があることを知って、今回持参したそうだ。

 彼は語る。

「生きよう」と思ったりとか、「頑張ろう」と思ったりするのって、
まずは関心事、こんなことをやってみたいと思ってるという、
その意欲に沿えるような話が聞けるといい。

 結局は、そういうことだろう。
 人間も所詮は、ニンジンを目の前にぶら下げられた馬と同じだ。快楽を得るために合理的に行動するしかない機械人形だ。
 なので、「~すべき」とか「~であるべき」とか「~した方がいいよ」とか、ましてや「~しろ!」とか言われたって、動くわけがない。
 その前に、その行動から得られるエサ(快楽)を提示せえよってことだ。

 「ひきこもり」たちはエサ(快楽)が見えないから行動しない(できない)のであって、男性支援員が当事者と一緒になって、まずはそれを見つけ出そうとするのは非常に理に適った行動だと思われる。
 エサ(快楽)さえ見つかれば、人間はすべからくそれを獲得すべく動く。動くしかない。人間も所詮は快楽の奴隷だから。

 アニメ柄のパッケージの菓子が実際に45歳男性の「欲望」「意欲」「希望」といったものに火を付けたかは不明だが、支援の初手としては非常に正しいと思う。

 なお、個人的には、探ってみて「欲しいもの」が特に見つからなかったとしても、とりあえず、「欲しいもの」がないと生存戦略上不利になるので、無理やり作り出したらいいと思う。
 その際に、人間の基本的欲求(眠欲、食欲、性欲)なんかは有用だろうと考える。それらに欲望を覚えない人間などほぼいないだろうから。
 とりあえず、質・量ともに、それら(眠欲、食欲、性欲)の潤沢な様子を思い浮かべるべきだ。快楽への欲求がムクムクと湧き上がってくるに違いない。

 そして、別にそれらは基本的には金さえあれば手に入るので、「社会参加」や「(人格としての)他者」は不要である。

 もちろん、多くの「金」を手に入れるためには、「社会参加(労働)」が必要になってくるのであって、この段階で、「手段」として「社会参加」が出てくる。
 最初から「社会参加」を「目的」にしたって、よほどの人間好きじゃないと上手くいくわけがない。

 ケーキを他者と分け合って快楽を感じるのは、充分にケーキが用意されているときであって、自分が必要最低限のケーキも獲得できていないのに、他者にケーキを分け与えて快楽を感じるなんて、あまりに非現実的な妄想だ。

 自分がケーキを十分に食べた後ならば、「他者」の存在に目が向くだろう。
 経済学の「限界効用逓減の法則」を持ち出すまでもなく、この時点では、「さらにケーキを食べる快楽」よりも「他者にケーキを分け与える快楽」の方が大きくなるのであろうから、自然とそういった行動をとるだろう。
 そういった行動をとった際の「快楽」を経験として学習したら(その味を覚えたら)、次からは自分が食べるケーキの量をさらに減らし我慢してでも、他者に貢献しようと思うのかもしれない。
 こうして、「社会参加」にさらに拍車がかかるのかもしれない。

 いずれにせよ、基本的欲求を満たすことが最優先であって、マズローの「欲求5段階説」ではないが、物事は段階を踏んで進めていかなければ失敗する。
 具体的な快楽の提示もないのに、いきなり「生きろ!そなたは美しい」と言われたって、「はぁ?」っつう感じだと思いますわ。

 あくまで「快楽を手に入れるために社会参加する」のであって、「社会参加」そのものが目的ではない。
(そうして「社会参加」を続ける中で、「社会参加」そのものに喜びを見出すようなことがあるかもしれないが、少なくともスタートにおいては「社会参加」はただの「手段」だ。)

 「未来」「希望」「意気」といったセンチメンタルな言葉を用いるから、「ひきこもり」当事者もシラケてしまうのであって、「快楽」「欲望」「欲求」といった直截的な言葉を多用すべきだろう。
 それにより、思い浮かべる「未来」もより具体的になるはずだ。

〇まとめ

 以上の話をザックリまとめると、「世間体なげ捨てて快楽に忠実に生きる」ことが生存戦略として正しいということである。
 「快楽」に向かって猪突猛進していれば、それ以外の些事など目に入らなくなるだろう。

 この生存戦略が正しいことを証明してやる。
 僕は絶対に「ひきこもり死」したりしない。

 これまでなんとなく漠然と思っていたことを、今回ブログで言語化できてよかった。考えがよりクリアになった。(と言っても、まだ書けていないことも多いが。)
 言語化へのきっかけを作ってくれた番組スタッフ、出演された方々に感謝だ。
 そして、「ひきこもり死」で亡くなられた方々に、改めて、心からご冥福をお祈りいたします。


スポンサーリンク


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA