【海外文学】『ゴリオ爺さん』(バルザック著)を読んだ感想。

壮大な理想を前にした卑小な人間どもの滑稽さ。

(長期企画「世界最高の小説【BEST100】を読破する!!!」第6回)

 「人間喜劇」と呼ばれる作品群の一つであるらしい。
 誰にとっての「喜劇」か?
 それはもちろん我々観客(読者)にとっての、である。登場人物たちが大真面目に「悲劇」を演じているのとは対照的に。
 本作の直前に読んだ小説が「大いなる自然の神がかり的な驚異」を描いた『白鯨』であっただけに、「人間という矮小な存在の馬鹿馬鹿しさ」を辟易するほどの執拗な筆致で描いた本作は心の底から大いに愉しむことができた。一度も「積読」状態にすることなく一息に読みきった。
 やはり僕が小説に求めるのは「人間ドラマ」であり、人間がいない「空っぽの世界」に興味はない。少なくともそれを小説で読みたいとは思わない。誰もが結果的に道化を演じざるを得ない猥雑な人間社会にこそ、フィクションの醍醐味がある。

 本書の語り手である〈ラスティニャック〉が抱く功名心や、〈ゴリオ爺さん〉の二人の娘が見せる虚栄心などは、まさに人間存在の真理をまざまざと読者に見せ付けてくれる。人間が如何に、みみっちく、くっだらない存在なのかを。
 これらは、ローマ教皇がブリブリブリと盛大に雑音を立てながら脱糞をかます場面を想像する時と同様のおかしみを僕に与えてくれる。「善なる神聖な存在が汚物を生み出している」という逆説が、堪らなく、面白い。性悪説は必ずしもニヒリズムのような人間に対する冷めた態度を誘発しない。むしろ、どう頑張っても完全なる善き存在にはなれないという人間存在に対し親近感や情愛を抱かせることすらある。
 本作の登場人物たちも、一度は内なる良心の声に従って自らの悪徳と闘おうとする。しかし、結局は欲に負けてしまう。
 それが、人間なのだ。
 どれほど心を潔白に清めようと、どれほど外見を美麗に飾り立てようと、それらは所詮、自らの真なる醜さを隠すための偽りの仮面でしかない。本質は、変わらない。

 本質において汚穢塗れの卑小な人間があくまで善なる存在あらんと四苦八苦する点にこそ、「喜劇性」が生じる。本書の〈ヴォートラン〉のように端から善であることを希求しない人間に「喜劇性」が生じる余地はない。むしろ、その悪徳によって読者にヒロイックな印象すら残しさえする。「クソッタレ!」と叫びながら権力者の顔に汚物を投げつける人物は、明らかにヒーロー(ダークヒーロー)であり、ピエロにはなり得ない。
 「喜劇性」を生じさせるためには、登場人物たちはあくまで善を求め七転八倒して苦しまねばならない。当人たちにとっては「悲劇」でなければならないのだ。

 さて、〈ラスティニャック〉や〈娘〉たちの場合、善であろうとはするものの、どちらかと言えば悪性が前面に打ち出されていた。多くの読者は彼らのことを悪人だと罵るだろう。
 では、当の〈ゴリオ爺さん〉の場合はどうか? 彼は、善人だったのか?
 多くの読者は言うはずだ。「〈ゴリオ爺さん〉は、父性愛に満ちた善人よ。あの壮絶な最期の場面には、涙を流さずにはいられなかったわね」。
 僕の意見は真逆である。
 死に際とは思えないほどの長台詞を捲し立てる〈ゴリオ爺さん〉の最期の場面には、爆笑してしまった。
 その場面まで僕は「〈ゴリオ爺さん〉の父性愛」が善なるものだと思っていた。しかし、何のことはない。「〈ゴリオ爺さん〉の父性愛」は結局のところ、「娘フェチ」という自分のエゴ(欲求)を満たすための「悪徳」だったのである。
 もちろん、僕も大抵の読者も〈ゴリオ爺さん〉自身も「父性愛」が善だと信じている。そして、それは正しい。だが、実際に〈ゴリオ爺さん〉が為してきたあれやこれやは、すべて「間違った父性愛」であり、悪徳だったのだ。
 まさに“必死に”善(父性愛)を実現しようとする〈ゴリオ爺さん〉。だが、所詮は、それも、真に娘のためにはならず、自らのエゴを満たすための悪行にすぎなかった。
 〈ゴリオ爺さん〉は悪人だったのである。
 ここに至って、僕は〈ゴリオ爺さん〉に大いなる親近感を抱かざるを得なかった。そして、口元は抑えようもないほどに緩み、声を上げて笑っていたのである。

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