【海外文学】『老人と海』(ヘミングウェイ著)を読んだ感想。

自分に打ち克つ」という快楽に耽る老人。

(長期企画「世界最高の小説【BEST100】を読破する!!!」第4回)

 〈老人〉が闘う相手は何か。それはカジキでも海でも自然でも孤独でも運命でもない。自分自身だ。
 この物語の登場人物は〈老人〉だけ、と言っても過言ではない。必然的に物語の中で打ち勝つべき「敵」も、「老人自身」ということにならざるを得ない。
 〈老人〉が闘う相手は老人自身だ。

 この物語のほぼ全編を通じて、老人は孤独だ。
 ただし、気を付けなければならない点は、老人がその孤独を自ら好んで選び取っているという点だ。「受難」を進んで引き受けている。
 〈老人〉は闘いたくて仕方なかったのだ――自分と。
 広漠とした海で自らの精神と肉体のみを使って大魚を釣るという行為を通して、自分の限界へと挑戦したかったのだ。
 今の自分を超克し新たな自分へと脱皮する快感に、〈老人〉は、もう一度だけ酔い痴れてみたかったに違いない。そのことによって、「生きている」という確固とした実感を得たかったに違いない。
 これは完全なる自己満足の世界だ。「漢のロマン」に他者の承認は必要ない。自己完結する。だから孤独でも問題ない。

 〈老人〉は度々、次のような台詞を吐く。

 「あの子がついていてくれたらなあ」

 「あの子」というのは、港町で甲斐甲斐しく〈老人〉の世話を焼く〈少年〉のことだ。〈少年〉はまるで、夫の帰りを陸で待つ「漁師の良き妻」のようだ。
 しかし〈老人〉がこういった台詞を吐くのも、単に自分の感情を煽っているに過ぎない。自分が孤独であるということを実感したい、自分に襲い掛かる受難の困難さを実感したいがために、こういったことを口走っているに過ぎない。
 事実、すぐさま〈老人〉はこう思う。

 なにをいうんだ、いま、お前には少年はついていない、とかれは思いなおす。お前にはただお前だけしかついてはいない。

 こうして窮極の状態まで自らを追い込むのだ。

 「自己との闘い」は、精神的な闘いばかりではない。当然のことながら肉体的な闘いも含まれる。漁の最中に負う怪我、疲労による意識の混濁。これらは、精神的受難である「孤独」と同じく、「受難」の一変形に過ぎない。そして、「受難」は〈老人〉にとって打ち倒すべき「敵」だ。そのため本作では、〈老人〉の手や脳が、まるで彼の人格とは別個の存在かのように度々描写されていた。
 しかしここでも、打ち倒すべき「敵」はやはり「自分自身」なのである。

 おれは、人間ってものがどんなことをやってのけられるかを、やつにわからせてやるんだ、人間が耐えていかねばならないものを教えてやるんだ。

 「やつ」は、カジキであり〈老人〉自身であり我々読者でもある。

 最終的に、カジキ――すなわち窮極の受難(自己の限界=自分自身)に打ち勝つ老人。
 しかし、心血注いでやっと釣り上げたカジキも鮫に食われてしまう。カジキが余りに長大だったため舟に引き上げることができず、舟体に縛り付けたのだが、港に帰る途中、血の臭いを嗅ぎ付けた獰猛な鮫どもに食われてしまうのだ。
 徐々に。
 少しずつ。
 結局カジキは身を食い尽くされ、頭と骨だけになってしまう。

 これは明らかに「老い(老衰と死)」の比喩だ。
 いかなる強さを持ってしても、どれだけの受難を克服しようとも、どれだけ敵を打ち負かそうとも、生命のメカニズムにだけは逆らえない。どんな生物もいずれは老いて、死ぬ。
 物語の中盤まで〈老人〉はその事実を受け容れないように見える。そもそも、「カジキ釣り」などという無謀な行為に老体に鞭打って及んだのも、それに耐えれば「老い」や「死」さえも克服できる気になれると考えたからではないか。
 しかし、いくら撃退しようとも次々に現れる鮫たちの前に、〈老人〉もついに諦観せざるを得なくなる。
 否応なく白い骨と化していくカジキと同様に、自分も老いて死んでいく。そのことを素直に受け容れていく。
 ラストで〈少年〉に見守られながら、深い眠りにつく〈老人〉は凪いだ海のように心底穏やかな気分だっただろう。

 だがそれは単なる諦念ではない。次の〈老人〉の言葉がそれを象徴している。

「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ」とかれは声に出していった、「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」

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