【海外文学】『人形の家』(イプセン著)を読んだ感想。

「人類みな平等」――そのバランスは常に危うい。

長期企画「世界最高の小説【BEST100】を読破する!!!」第7回)

 フェミニズムは、被抑圧者による権利回復運動の一変奏でしかない。この小説から読み取るべきは、「女性の自立」といった狭小なテーマではなく、「人間存在は如何にして主体なり得るか」という普遍的主題である。人間社会では、女性に限らず誰もが〈人形〉となる可能性を孕んでいる。または、知らぬ内に他者を〈人形〉として扱い、後々“啓蒙”された彼らから手痛いしっぺ返しを喰らう可能性がある。

 この小説で「愛」は「洗練された権力関係」として描かれる。
 暴力や恐怖によって弱者を支配する権力は幼稚で拙劣だ。常に抵抗・反乱・復讐の圧力に曝され、平穏や安定は望むべくもないからだ。だがしかし、「愛」という美名のもとに被抑圧者を一種の満足状態に置くことができれば、強固な権力関係を築くことができる。双方が共に満足しているが故に、内部崩壊の危険性がぐっと低くなる。

 問題は、その満足が仮初のものに過ぎない(とされる)ことだ。「愛」という美辞麗句に目を曇らされることなく、真実を直視すれば、そこに現れるのは紛うことなき支配関係である。
 一匹の小鳥が鳥籠に閉じ込められているとして、ここに支配関係を見るのは容易い。なぜなら我々は「鳥籠」という物理的存在を簡単に認識できるからだ。「籠」によって飼い主が小鳥を束縛・支配しているという関係が明白だ。
 だが、飼い主が豊富な餌によって小鳥を手懐けている場合はどうだろう。ここに支配関係を見出すのは必ずしも容易なことではない。飼い主が「この小鳥は僕のことが大好きなんだ。だから、籠から出しても逃げることはないんだよ。僕も小鳥を食べちゃいたいくらいに愛しているから、小鳥が死なないように餌をやっているのさ。当然だろ?」と主張したらば、鳥の言葉が分からない限り、餌で小鳥を支配しているとは明言できない。

 いや、違う。
 問題は、「小鳥自身が、真に自分が求めているものが、飼い主か餌かが、分からなくなっていること」だ。第三者の客観的判断は関係ない。
 パブロフの犬が鈴の音を聞いただけで涎を垂らすように、小鳥は飼い主を愛しているのか、それとも餌を求めているだけなのか自分でも分からなくなっている。啓蒙主義たちの言う「盲目」だ。
 彼らは言うだろう。「飼い主が餌を与えなくなっても、小鳥が飼い主を慕うことがあるならば、それこそが真の愛なのだ」と。
 著者イプセンは、この主張に忠実に則るかたちで物語を展開している。

 いや、違うな。
 問題は被抑圧者にあるのではない。
 この小説の中でも、明らかに〈ノーラ〉は「真実の愛」が何たるかを知っている。理解している。対等な人格同士の水平的関係こそが「真の愛」だと分かっている。パターナリズムは結局のところ人間存在を〈人形〉のように扱う権力者の自慰行為である、と明確に認識している。
 〈ノーラ〉の過失は、〈ヘルメル〉の日常の言動が「真の愛」から発したものだと誤解していた点にある。自分が求めているものが「真の愛」なのか「パターナリズムに基づく庇護・干渉」なのかが分からなかった、というわけでは断じてない。でなければ、夫のために隠れて負債を抱えたりはしない(できない)だろう。
 自らの求めるものが「真の愛」だと明確に認識した上で、〈ヘルメル〉の行為を「真の愛」だと勘違いしていたに過ぎない(または、自分にそう言い聞かせてきたに過ぎない)。
 パブロフの犬が鈴の音を聞いて涎を垂らすからと言って、パブロフの犬が鈴を食べたいはずがないのだ。

 となると、この小説の問題提起の中心は、被抑圧者側にあるのではなく、権力者側にあることになる。
 権力者が単なる自慰行為(パターナリスティックな庇護・干渉)を「真の愛」だと誤解している――両者を明確に峻別できていない点こそが、真の問題なのだ。
 自分はただの〈人形〉に過ぎないと被抑圧者が気付いたとき、権力者の王国は瓦解する。あっけなく。いとも簡単に。(崩壊を阻止しようとすれば、暴力という名の古典的な力を持ち出さざるを得ない。)
「衣装を脱ぐのよ」という〈ノーラ〉の象徴的な台詞から始まる〈ヘルメル〉の〈遊び部屋〉あるいは〈人形の家〉の崩壊。思いのままに操ってきた〈人形妻〉の突然の反乱。
 当時の保守的な思想に染まっていた〈ヘルメル〉には、最後の最後まで〈ノーラ〉の行動は理解不能だっただろう。

ヘルメル 何というけしからん! お前は自分の、いちばん神聖な義務を放棄するんだぞ。
ノーラ 何があたしのいちばん神聖な義務だ、っておっしゃるの?
ヘルメル そんなことまで言わなくちゃならないのか! 夫と子供たちに対する義務じゃないか?
ノーラ あたしには、同じように神聖な義務がほかにあるわ。
ヘルメル そんなものはない。どんな義務だ?
ノーラ あたし自身に対する義務よ。
ヘルメル お前は何よりまず妻で、母親だ。
ノーラ そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね。


 ただし、僕は「対等な人間」とか「水平的関係」とか、そういったものを信じていない。「真の愛」もパターナリズムも大して変わらないものだと思っている。
 人間の自己実現は他者貢献によって完成するという。どれだけ仕事で成功しようが自己研鑽に励もうが、所帯を持って子を養育していない点で、独身者が一人前の大人と認められない理由がここにある。愛だの自己犠牲だの言い方は色々だろうが、自らを他者に捧げる行為によって自己は実現されるとされる。
 相手にも自己実現を許すか(自分が与えるばかりでなく相手から与えられるか)の違いはあるにせよ、「真の愛」もパターナリズムも本質は同じである。
 我々は〈リンデ夫人〉の台詞に耳を傾けるべきであろう。

リンデ夫人 でもいまはまったくの独りぼっちで、そのむなしさとわびしさが、あたしはとてもたまらないのよ。ただ自分のためにだけ働いたって、楽しくなんかありゃしない。ニルス、誰か、何か、そのために働くんだ、っていうものを持たせてちょうだい。


 こうしてまた新たな権力関係が築かれていく。

 天秤の片側に羽毛がそっと舞い降りただけで、水平的関係は瞬時に権力関係へと転化する。我々はそのことを厭というほど知り尽くしているから、皆が皆、戦々恐々としている。天秤の釣り合いが作り出す緊張感に耐え切れず、上でも下でもいいからさっさと安定した関係になりたいと考える人間が、性風俗でSMプレイに走ったりする。
 すべての人間が〈ノーラ〉のように強くはなく、〈人形〉に甘んじることを良しとする人間も現実には多い。DV旦那から逃げ出さない女も、ブラック企業に飼い馴らされる社畜の男も、結局のところ、その状態が好きだからこそそうしているのかもしれない。啓蒙は彼らを別の場所に向かわせるかもしれないが、その場所が楽園だとは限らない。

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