【海外文学】『白鯨』(メルヴィル著)を読んだ感想。
シロナガスクジラよりこの小説のほうが長い。
(長期企画「世界最高の小説【BEST100】を読破する!!!」第5回)
本書を読み始めたのは、今を遥かに遡ること数ヶ月前――。2015年の夏だ。
夏の太陽の下で読むに相応しい小説の舞台と言えばどこだ? 決まっている。海だ。青い海だ。そう思って僕は、前回の『老人と海』に引き続き、本書を選んだ。
結果、読み終わったのはいつか?
12月だ。冬だ。太陽はとっくに衰退し、海は流氷に覆われていた。誰が海になど漕ぎ出そうと思うだろう。
たった一冊の、たった一冊の小説を読むのにこれほどの刻を要したのは人生で初めてだ。緑葉を豊かに茂らせた木々が丸裸になるほどの長日月を費やしたにも関わらず、本書は僕に大いなる感動を与えはしなかった。
その恨みつらみを壮大な叙事詩としてここに綴ることは容易いが、それでは本書と同じ轍を踏むことになろう。
できるだけ簡潔に述べたい。
まずもって、とても一介の船乗りが書いた(という設定)とは思えないほど、すべてが衒学的だ。硬質な文体や術語の多用には翻訳者の作為も含まれていようが、内容もまるで事典や学術書のように微に入り細を穿っている。くどい。冗長に過ぎる。メルヴィルは日本の短歌や俳句に学べ。美や善を一文に凝縮しろ。と、世界的大文豪を罵りたくなる。
偉大な作家であるメルヴィルには情景や人物を豊かに描写する術がもちろん備わっている。しかし、だが、彼自身はその事実にどうも懐疑的なようで、常に一言二言、一文二文、いや一段落二段落、一章二章、多い。説明過多が度を超して、もはや小説と言うより、余分な修辞がゴタゴタ付いた鯨学の専門書とさえ言っていい。
僕は、海や鯨や捕鯨船そのものに興味はない。それらを通じた「物語」にこそ興味がある。海の壮大さを味わいたいのなら本など読まずに船に乗って海に漕ぎ出せばいいし、鯨に関する生物学的好奇心を満たしたいなら端的に専門書を読むか博物館に出かけるかすればいい。僕が小説に求めているのはあくまで「物語」なのだ。
当然ながら本書にも物語要素は多分に含まれているが、断続的に本筋とはさほど関係がないと思われる冗漫な叙述が挿入されるので、僕のような単細胞はそれを読む間に物語の本筋を忘れてしまう。物語に没入できないのだ。
以上の理由により、本書に関しては「クッソ長い難解な海外文学を読みきった」という自己満足以外の感慨を抱き得なかった。
これはおそらく、「本書を読むべき時期」が未成熟な僕にはまだ訪れていなかったということに違いないので、数十年後に再度挑戦してみたい。
終了。
合掌。
神に誓って付記しておくが、未読の為に感想をこれ以上書かないのではなく、最後まで一字一句に目を通した上で、貴重な時間を割いてまでここに記すべき感想を抱き得なかったのである。