【ドラマ】「Nのために」(湊かなえ原作/榮倉奈々主演)を観た感想。

効果的な演出による時間軸の表現。

 TBSの「金曜ドラマ」のイメージと言えば、「木更津キャッツアイ」や「世界の中心で、愛をさけぶ」、「花より男子」といった、若者向け青春ドラマの印象が強かった。しかし2010年代から毛色が変わってきたようだ。ここ数年の主演俳優を見ても、旬を過ぎた渋めの配役が目立つ。波に乗っている若手俳優の起用による「若者ウケ」を狙っていないことは明らかだ。少子化や若者のテレビ離れが原因なのかは知らないが、何はともあれ、大人も楽しめる作品が増えてきたことは喜ばしい。
 大人の娯楽はサスペンスだ。人間の闇に焦点を当てた暗い作風だ。メインは人間の「負」の部分であって、愛情や友情といった「正」の部分は、「負」の部分を強調するためのスパイスにすぎない。この点が、「正」の部分を全面に打ち出す若者向け娯楽作品と大きく異なる点だろう。
 人間の「正」の部分を真正面から明るく爽やかに描いた作品は、若者たちに夢を見させ彼らを魅了するが、現実の厳しさを知り尽くした大人にとっては、滑稽なホラ話にしか映らない。「負」の側面を存分に描き切ったあとでないと、大人は「正」の描写に納得しない。
 雲ひとつない青空は確かに爽やかで美しいが、それでは雨が降らず作物は育たないことを、大人は知っている。彼らは厚い雲の隙間から漏れ降りる一筋の光にこそ、美しさを見出すだろう。

 そんな大人のための「金曜ドラマ」において、湊かなえの小説は重用されている(本作以外には2013年の「夜行観覧車」など)。
 大人のための「金曜ドラマ」と湊かなえという作家は、確かに、相性がいい組み合わせのように思われる。
 湊かなえは、映像化に適した作家だ。彼女の原作は、得てして現実味を獲得していないことが多い。確かに物語自体は刺激的でスリリングなのだが、その物語に真実味を与えるための何か(筆致?)が欠けている。だから途中で白けてしまう。だが、映像化されることによって、物語には否応なく現実感が加味され、物語が本来備えている圧倒的牽引力と合わさって、その映像化作品は極めて優れたものとなる。
 湊かなえの映像化作品を観るのは、「夜行観覧車」、大ヒットした映画「告白」に次いで、今回の「Nのために」で三本目だが、すべて満足のいくクオリティーだった。

 本作は時間軸が入り組んでいる。物語の核となる事件が二つあり、それぞれの事件が発生した15年前と10年前、そして現在――この3つの時間を行きつ戻りつしながら、物語は進行する。
 時間軸の煩雑な転換に、普通ならば視聴者は混乱する。だが、このドラマは、それぞれの「時間」を鮮やかに描き分けることによって、決して視聴者を混乱させない。そればかりか、その対比が鮮やかで、そこに一種の美しさすら感じた。
 まず、画面の輝度(明るさ)からしてまったく違う。事件が起きた後の現在は、天気が常に雨か曇りかのように、輝度が抑えられている。暗い。季節も冬で、俳優が着ているコートも、黒や灰色といった暗めの色である。カラーテレビにも関わらず、モノトーンの画面を見ているようだった。一方、過去は、基本的に色鮮やかで、明るく描かれている。季節も夏が中心で、悲劇的な事件の発生が近づくにつれて冬に移行してはいくものの、役者の衣装は、現在のようなモノトーンではなく、依然として(クリスマスカラーの赤や緑など)鮮やかな配色のままである。
 また、過去の場面では、遠景の美しいショットが多用されている。田舎の小さな島を取り囲むキラキラした青い海や、東京の高層ビルから眺める地平線に沈む夕日など、旅行会社のパンフレットに載っていそうな映像美が盛り沢山だった。この遠景の美しいショットは、登場人物たちが未来を語るときに多用される。彼らが夢見る未来は、今彼らの眼前に広がる景色のように美しく輝いていたはずだ。だが――、前述したように現実の未来(現在)は、暗く、重苦しい。
 過去と未来(現在)の間に、一体何があったのか。これが物語の主要な謎となり、視聴者を惹き付ける。こういった意味からも、過去と未来(現在)の明暗をはっきりと描き分けておく必要があったのだろう。

 父親に家族ごと見捨てられ、片田舎の小さな島で壮絶な極貧生活を余儀なくされた主人公〈杉下希美〉。同じクラスの男子生徒〈成瀬慎司〉と互いに励まし合い、未来を夢見て、大学進学を機にとうとう彼女は島を出る。どん底の状態から立ち上がり、あとは新天地の東京で成り上がるだけだった。未来は輝いたものとなるはずだった。が、大学生活最後のクリスマス――二つ目の事件が起こる。以降、彼女は、重苦しい秘密を胸に抱えたまま、決して明るいとは言えない人生を余儀なくされる。
 そんな生活を送っている中、一人の男が彼女を訪ねてくる。彼は、一つ目の事件が起きた当時、島の駐在員を勤める警察官だった。一つ目の事件の真犯人は未だ見つかっておらず、15年の時効を目前に事件は迷宮入りしようとしていた。元警官の男は、ある理由から、当時高校生だった〈希美〉と〈慎司〉が事件の真実を知っていると疑い、今になって真相を追究し始めたのである。そして、東京でそれぞれの生活を送っていたはずの二人が、二つ目の事件当日の夜、たまたま一緒に現場に居合わせた、ということにも疑念を抱いて――。だが、〈希美〉は胸に秘めた記憶を決して語ろうとはしなかった。
「Nのために」。
 それは、二つ目の事件の現場に居合わせた〈慎司〉たち他の三人も同様だった。彼らにもそれぞれに大切な「N」がいた。それぞれの「N」のために彼らは重く口を閉ざす。真実は決して、語られない。

 演出による過去と現在の対比も素晴らしかったのだが、俳優陣の演技も巧かった。なんせ、高校生から15年後の三十路を越えた大人までを演じ分けるのだ。なかなか大変だったに違いないが、榮倉奈々を初めとする俳優陣は見事にそれをやり切った。
 天真爛漫に無邪気にはしゃいでいた若者たちが、深い影を帯びた大人へと変貌している。どんな事件が起きたのかと視聴者は気になって仕方がない。

 それにしても、湊かなえを始めとする女流作家の観察眼には感服するしかない。日常に潜む人間の歪んだ心を描写することにかけては、男性作家より女流作家の方が何倍も巧い。
 男の考える「悪」は、その思想自体が社会的で壮大なものとなりがちなのに対し、女の考える「悪」は、あくまでも日常の些細な「悪」とも呼べないような「悪」であって、それが蓄積され、何かのきっかけで暴走を起こし、事件が起こる。
 アプローチの仕方が大きく異なるように感じた。


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