【海外文学】『異邦人』(カミュ著)を読んだ感想。

異邦人はそもそも理解されるべき存在か。

(長期企画「世界最高の小説【BEST100】を読破する!!!」第3回)

 裏表紙に書かれた「あらすじ」によって読み方を規定されてしまった。引用しよう。

 母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作。

 この梗概に目を通してから本編を読み始めたので、僕の意識は〈ムルソー〉の異常性や不条理性に傾注されざるを得なかった。結果として導き出された感想は、おそらく僕固有のものではなく、世間一般の「『異邦人』評」の陳腐な焼き直しに他ならない。
 僕個人の率直で端的な感想は、「さほど面白くなかった」に尽きるだろう。
 何らの予備知識なしに本書を読んだならば、〈ムルソー〉の特異性に僕は一向に気が付かなかったに違いない。彼の人間社会に対するアパシーは僕にとっても身近なものであるから。

 これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へ立ち上ってくる。その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。他人の死、母の愛――そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命――そんなものに何の意味があろう。

 死の息吹は、すべてを灰燼と化す。無に帰する。性的絶頂も斬首刑に処される苦しみも、終局的には虚無に呑み込まれ、等価となる。とすれば、生きることに意味はない。僕らの人生は塵くずに等しい。

 このような認識を持ち、尚且それを態度に顕在化させてしまう者――それが「異邦人」だ。
 異邦人は、「普通」の人々の欺瞞的な態度を滑稽なものとして蔑視している。であるからして、そのような態度を取ることを強制されれば、当然のように明確な拒否反応を示す。
 本書の主人公〈ムルソー〉は、母の死に面して涙を流さなかった。この事実により、本来ならば正当防衛として認められるべき殺人事件の裁判で、有罪判決を受けてしまう。

 私の弁護士は、たまりかねて、両腕を高くあげて、大声を立てた。そのため、袖がさがって来て、糊のついたシャツの折り目があらわになった。「要するに、彼は母親を埋葬したことで告発されたのでしょうか、それとも一人の男を殺害したことで告発されたのでしょうか?」

「母親が死んだならば涙を流して悲しむべきだ」という世間の常識を異邦人は否定する。「涙を流すか流さないか」は、個々の具体的な状況や事情に因る。普遍的に「べきだ」と強制されるものではない、と異邦人は考える。
 これは単なる一例だ。
 異邦人は、総体としての無価値な人生から(あるいは、そのことを認識しながら)、そこから演繹的に個々の出来事にも意味を与えようとする人々を嫌悪する。
 この件に関して、巻末の解説を一部抜粋しよう。

 ムルソーは、サルトルが巧みに指摘するように、たとえば「愛」と呼ばれるような一般的感情とは無縁の存在である。人は、つねに相手のことを考えているわけではなくとも、きれぎれの感情に抽象的統一を与えて、それを「愛」と呼ぶ。ムルソーは、このような意味づけをいっさい認めない。彼にとって重要なのは、現在のものであり、具体的なものだけだ。現在の欲望だけが彼をゆり動かす。

 終幕において、獄舎を訪問したキリスト教の司祭に対し〈ムルソー〉が感情を爆発させる場面は象徴的だ。すべての頂点に教義が存在する宗教は、異邦人〈ムルソー〉の対極に位置する存在である。

 現代は異邦人がマジョリティかもしれない。人生という物語の演者を続けることに虚しさを覚える人はきっと、多い。

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