【寅年】トラを見に神戸市立王子動物園に男一人で行ってきた。【2022年】
年が明け、2022年・寅年となった。
元旦の朝、近所の神社に赴いて初詣もろもろ済ませて帰宅したら、なにもすることがなくなった。
やるべきことは腐るほどあるが、その義務は三が日くらい免除されているように思われた。正月なのだから、「やるべきこと」ではなく、「やりたいこと」を”やるべき”だ。
しかし、即実行可能な「やりたいこと」はさほど多くなかった。
元日が終わるころには、ヒマに倦んでいた。
寝正月はパラダイスかと思っていたが、いざ始まってみると1日で飽きた。
あまりにヒマなので、動物園に行くことにした。
そうだ、寅年なのだからトラを見に行こう。
と、1月2日の朝、布団の中でパチリと目が覚めた瞬間にひらめいたのだった。
正月の朝は寒い。
街や電車にホモ・サピエンスの姿は少ない。
余裕のある人々は帰省や旅行に遠方へ出かけているのだろうし、余裕のない人々は三が日くらいは家でゆっくり身も心も休めたいのだろう。
よしよし、コロナもあるし、動物園は僕の貸切状態に違いない、と内心ほくそ笑んだ。
神戸市立王子動物園に着いた。
めっちゃ、人いた。
ホモ・サピエンスが入口に列をなしていた。
駐車場には神戸ナンバー以外の車も多数とまっており、王子動物園は帰省や旅行で近くを訪れた人々の格好の観光スポットとなっているようだった。
クソが。とんだ誤算だわ。
大阪の動物園は混んでそうだし、遠方のサファリパークは行くのダルいし、ちょうどいいと思って選んだ神戸市立王子動物園がこの人だかりとは……。
多少気おくれしたが、ま、仕方ない、と気持ちを切り替えることにした。
ただのホモ・サピエンスには興味ありません。トラを見に来ただけだもの。
――みたいな、涼宮ハルヒ的スタンスで臨もうと思った。
つづら折りの入場列に並んでいる間、近くにいる人々の会話が耳に入ってきた。
どうやら、王子動物園の熱心な常連ファンが一定の割合で存在するようだ。
彼らはみな一様に、大きなカメラを首からぶら下げ、入場口では当たり前のように年間パスポートを提示し、顔見知りの常連同士で新年のあいさつを交わし、お気に入りの展示動物の個体名を「ちゃん付け」で呼び、「〇〇ちゃん、元気かしら?」などと常連同士で盛り上がっていた。
どの分野にもコアなファンというものはいるものだ。
若干、引いた。
また、入口では新年の先着1,000人だか10,000人だかに「王子動物園2022年カレンダー」が無料で配られていた。
ちょうど今年のカレンダーが欲しかったので、嬉々として受け取った。
家に帰って飾ったのだが、カレンダーに、「掲載した写真は、王子動物園での70年間の思い出写真として皆さまよりお送りいただいたものです」との一文があった。
あの常連ファンたちが携えていたカメラは、こういうかたちで役に立っていたのだ。なるほど。
感傷的フラミンゴ
王子動物園は訪れた記憶がなかったので、今回が初来園かと思っていたが、入口付近のフラミンゴの展示を見て、遥か昔に訪れたことを思い出した。
大学生の頃だったか、ニート時代か……。
ほぼ忘却の彼方だったが、この美しいフラミンゴの群れの様子は脳の片隅に残っていた。
王子動物園を訪れるのは、今日が初めてではない。
そして、あの時も僕は1人だったはずだ。
動物園特有のケモノ臭が記憶をさらに掘り起こしてくれるかと期待したが、思い出せたのはそれだけだった。
それだけだったが、昔も今も相も変わらず、僕は独りで動物園なんぞに来ているのだなぁと思って、別に悲しくも悔しくもなかったが、多少感傷的にはなった。
自分の成長のなさに。
ネコ科動物は神にゃ~
それはそれ。僕はなにもセンチメンタルな気分に浸るために王子動物園まで来たわけではない。
トラだ。虎だ。寅だ。
今年の干支を見に来たのだ。
ぶっちゃけ、トラさえ拝めれば、今日は帰ってもいいのだ。
寒いし。
というわけで、園内マップで猛獣ゾーンを特定し、他のザコ動物たちには目もくれず、トラの檻の前までやってきた。
近くでヒョウの赤ちゃんが限定公開されているらしく、人々はそちらに群がっており、今年の主役だというのに、トラの展示スペースのまわりに人は少なかった。
やったゼ★
事前の情報収集(ネットサーフィン)で、動物園には朝イチで行った方がいいと調べていた。
自らのナワバリ(展示檻の中)をチェックするため、動物たちがもっとも活発に動く時間が朝だからだ。
ネットの情報は正しかった。
期待以上に、トラが活発に動きまわっていた。
強化ガラスの向こうの展示スペース内を、トラがウロウロと忙しく動きまわっている。
オレンジと黒のタテ縞の毛皮。その下に確固として存在を感じられる大きな筋肉。
トラの巨体が動くたび、動きにあわせて筋肉が隆起し、毛皮のタテ縞が歪む。
美しい。
トラは世界の多くの地域で神として崇められているらしいが、それも納得だ。
群れることでしか種の存続を図れなかった「ひ弱なサル」が、圧倒的暴力の象徴とも言える単独行動の大型肉食獣に尊崇の念を覚えるのは、ある意味で当然のことなのかもしれない。
ほれぼれする。
ひとときも余所見することなく、一心不乱にトラを見つめていたら、トラが突然ぴたりと立ち止まり、僕の方を見た。
視線が合った。間違いなく。
目を逸らしたら殺られると思って(そんなわけはないのだが)、視線を合わし続けた。
金色の双眼が、僕を見据える。
数秒か数分が経過した。
トラは、無力な軟弱サルに興味を失ったのか、つまらなさそうに僕から視線を外し、そして、あくびをした。
トラの口が、人間の頭を丸飲みできそうなほど大きく開かれる。
鋭く尖った長い犬歯が顕わとなる。
それを僕に見せつけるかのように、トラは数度あくびを繰り返した。
トラを十分に堪能した僕は、せっかくなので他のネコ科動物も見ようと思い、その場を離れた。
ライオンはメスが一匹、檻のすみっこで寝ているだけだった。
ネコ科の中で唯一群れを形成する動物がライオンらしいのだが、進化の過程で集団行動を採用した動物は、やはり単体で見ると相対的に魅力に欠ける。
「百獣の王」の名に相応しい動物は、僕の中ではライオンではなくトラである。
神戸市立王子動物園は、ネコ科動物の中でも「ヒョウ」を推しているようだ。
斑紋上の毛皮を有した普通のヒョウだけでなく、クロヒョウ(黒豹)やユキヒョウ(雪豹)も展示されていた。
クロヒョウは、普通のヒョウと分類学上、同一の種らしい(黒変種)。普通のヒョウが真っ黒な子どもを産むことも多々あるという。
王子動物園では、最近生まれたばかりのクロヒョウの兄弟が時間を限定して公開されていた。人々はその愛らしい姿を一目見ようと長蛇の列をなしていた。
僕は興味なかったので素通りするつもりだったのだが、列に並んだ人々の隙間から、2つの小さな黒いかたまりが元気よくじゃれあっているのが見えた。
かわいかった。
動物の多くは、幼体が自衛できるよう、その容姿を愛護に値する「かわいらしい」ものにするよう進化してきた。その「かわいらしさ」の特徴は、どうやら多くの種で共有されているらしく、サルもネコの幼体を見ればかわいらしく感じるようになっているようだ。
わー、かわいー。と思って、立ち止まってしばらく見とれていたら(列に並ばなくても列の後ろから余裕で見れた)、動物園のスタッフに「ここは通路ですから立ち止まらないでくださーい」と注意されてしまった。
僕と同じように、列の後ろの通路で立ち止まりクロヒョウの子どもを見ている客は多くいて、スタッフは「立ち止まらないでくださーい」を何度も繰り返していた。
立ち止まったらダメらしいので、とりあえず僕は通路を2往復した。さすがに3往復したらスタッフに殴られそうだったのでやめておいた。
マヌルネコがいた。
NHKの動物番組「ダーウィンが来た!」でデフォルメされたアニメキャラクターとしては知っていたが、実物を見たのは初めてだった。そばにいたカップルも、「あ。コレ、『ダーウィンが来た!』のヤツやん」「あー。山田孝之が声優やってるヤツやろ?」とか会話してた。
なるほど、これがマヌルネコか。
と、それだけ思った。
「パンダ」と「コアラ」、両方いる!
パンダとコアラをどちらも飼育展示している施設は、日本で神戸市立王子動物園だけらしい。”国内唯一”と大々的にアピールされていた。
僕としては目的(トラを拝むこと)は既に果たしたし、パンダやコアラにさして興味もなかったが、「せっかくここまで来たのに”目玉商品”を見ないのはソンだ」という生来の貧乏根性が帰宅を許さなかった。
絶滅危惧種あるいはそれに類するものという「希少性」そのものが、パンダやコアラの魅力になっている。
人々はその事実に群がる。
パンダの展示には長蛇の列ができており、30分ほど待たされた。
にも関わらず、観覧はウォークスルー形式で、どれほどゆっくり歩いてもパンダを見れた時間は1分にも満たなかった。
しかし、「わー、かわいー」と思うには十分だった。
白と黒のふわふわの毛に覆われた、ぬいぐるみのようなフォルム。
やさしげに垂れ下がった、目のまわりの黒いふちどり。
ハイハイがやっとできるようになった幼児みたいな、愛らしいしぐさ。
このパンダが成体か幼体かは不明だが、なるほど、サルに「かわいい」と思わせる形態をなしている。
おそらく、希少性という価値を有していなくとも、パンダは人気の展示動物となるのだろう。
コアラにも人々は群がっていた。
パンダと違って客が整理されていなかったので、人々は展示ガラスの前に、まさに密集していた。彼らはコロナの危険も忘れて、コアラに見入っていた。
突っ込むべきか躊躇していたら、端の方で観覧していた家族連れが移動したので、そのぽっかり空いたスペースにうまく入ることができた。
「わー、かわいー」と思った。
“ぬいぐるみ性”や”幼児性”という特徴をコアラも備えていた。
両耳までふわふわの毛に覆われているし、木にしがみつく姿勢は親に抱きつく幼児そのものだ。
なるほど、コアラも、その希少性だけが魅力ではないのだ。
同じ有袋類の珍しい動物としてカンガルーも展示されていたが、ヤツには「かわいい」という感慨は覚えなかったものな。
ネコにしろパンダにしろ、”万人ウケ”する動物というのは、彼らが具備する生来の特徴によりホモ・サピエンスを魅了する。
希少か否かは、さしたる問題ではないのだ。
類人猿に同族嫌悪
王子動物園にはサルも多く展示されている。(愛知の「日本モンキーセンター」には敵うべくもないが。)
僕は軽度の対人恐怖症であるので、それを克服すべく、ホモ・サピエンス全般に関して私的な勉強を続けている。(知識を増やしても、人間嫌いは治らなさそうだけど。)
ホモ・サピエンスの「理性(知性)」について倫理学や哲学で学ぶ一方で、その「動物性」を考えるために人類学や生物学などについても学んできた。
なぜなら、当為論の前提として、まずもって、「ホモ・サピエンスには他の動物が有しない理性(知性)が『ある』」という記述理論の命題が証明されなければならないような気がするからだ(もちろん「人間に理性などなくとも規範は生ずる」という主張も可能だろうが)。
ホモ・サピエンスが誕生してからの種内部での分化(進化)を主として取り扱う「文化人類学」もおもしろいのだが、そもそものそもそもとして、「ホモ・サピエンス」という特異な生物種がどのように形成されていったのかや、ホモ・サピエンスの遺伝子や脳ミソや身体構造はどうなっているのかなどを扱う「自然人類学」にも大きな興味を抱いている。
もちろん、その一分野である「霊長類学」も好きだ。なぜなら、特定の概念を定義するにあたって、その近似概念との相違点を列挙するというのは学問の定石だからだ。「ホモ・サピエンス」を考えるにあたって、近縁種である「サル」を調べるのは効率的なアプローチの1つと言えるだろう。
そのようなわけで、主として知的好奇心から僕は「サル」が好きである。
また、原猿類や真猿類の多くを動物園でぼーっと眺めていると、彼らの行動のいたるところにホモ・サピエンスにも共通する動物性(野性)が垣間見えて、笑える。「いやぁサルだなぁwww」と嗤える。嘲笑できる。
のだが、しかしながら、チンパンジーなど「類人猿」の実物を見るのは、あまり好きではない。
ホモ・サピエンスと遺伝子上1%も違わない類人猿(チンパンジーなど)について、「概念(知識)」として書物や映像で調べることは好きなのだが、「生身」のソレはあまり好きではない。
同族嫌悪だと思われる。
ヤツらは、あまりにヒトに似通っている。
僕がなぜホモ・サピエンスを怖れる(好きになれない)かというと、彼らが僕よりも優れた(賢しい)存在に思えるからだ。
僕という存在に危害を加えかねない脅威に映るからだ。
(もちろんそういった恐怖はたいてい不合理なものだと分かっているが、知識があるからといって、すぐに経験則を払拭できるわけではない。)
チンパンジーをはじめとした類人猿は、ホモ・サピエンスと同じく、野蛮な動物性のみならず、狡猾な知性をも有した存在に僕には映る。
囚われのヤツらを檻の外から観察しているのは僕なのに、じっと視線を合わせていると、だんだん類人猿が僕を観察しているような気分になってくる。
不快だ。
他の動物は仮に檻から逃げ出せたとしても、食料以上の価値を僕に認めないだろう。肉食獣は僕を肉として食うだけだろうし、草食動物は僕なんかスルーだろう。
しかし、チンパンジーをはじめとする類人猿は、僕を食うためではなく、単に「なぶり殺す」ためだけに、僕に向かってきそうな気がする。
映画「猿の惑星」シリーズを何度も見すぎで、その影響を否定できないが、ホモ・サピエンスと同様に類人猿も本能レベルで好きになれない。不気味だ。
癒しの定番動物たち
心がザラついたときは、「自然」に触れるに限る。
中途半端な知性を手に入れたサルどもは余計なことを考えすぎる。彼らに付き合っていても摩耗するだけ。彼らからはできるだけ距離を置こう。
自然に触れよう。海や山へ出かけよう。天体観測をしよう。そしてもちろん、動物に癒されよう。
動物たちを見ていると、癒される。
彼らは至極単純な世界に生きているように僕には思える。
ましてや動物園の動物なんて、外敵はいないし、なにもしなくともエサは手に入るし、マジでゆるやかな幸福の中を揺蕩っているように思える。
いいなぁー。
僕もなにも考えたくないなぁー。
食って、寝て、交尾して。時がきたら、死んで。
そうゆうふうに生きたいなー。
うん、ぜったい、そうゆうふうに生きるぞー。
動物園の(類人猿を除く)動物たちは、僕をこういった境地にさせてくれる。
癒しを与え、生きる活力を与えてくれる。
僕が単純な人生を生きたいと望めば、僕は単純な人生を生きることができるのだ。
神戸市立王子動物園には、どこの動物園にもいる「定番動物」もちゃんと展示されている。
パンダやコアラのせいで脇役扱いの彼らだが、やっぱり「鼻の長いゾウさん」や「首の長いキリンさん」は生物多様性の象徴だし、”世界の果て”の生きものであるペンギンやホッキョクグマが見られるというのも実はすごいことなのだ。
忘れちゃいけない。是非、見よう。
新春を祝う動物たち
正月ということで、縁起のいい動物たちも見ておこうと思った。
とりあえず、「鶴亀」で長寿を願う。
謎の新春飾りがあった。
スタッフが油性マジックで適当に書いたと思われる「迎春」の文字。
なんだこれ。
しばらく眺めていたら、ラクダが寄ってきて、飾りから垂れ下がるヒモを口で引っ張った。
カランカラン、と乾いた音が鳴った。
……め、めでたい。うん、めでたい。「除夜の鐘」的なアレだよね、うん。
(どうやら、本来の機能はラクダの水飲みのようだ。ヒモを引っ張ったら水が垂れてくる仕組みみたい。)
まとめ
上記で紹介した以外にも、神戸市立王子動物園には多種多様な動物が展示されている。
進化の過程で唯一無二の特徴を有するに至った動物たち。パンダのような希少種でなくとも、それぞれが実におもしろいユニークな存在だ。飽きない。
これだけバラエティーに溢れた動物たちを一挙に見ることができて、入場料600円は格安だと思う。
一方で、それらの動物たちを捕獲し、飼育し、繁殖させ、売買し、愛でる、ホモ・サピエンスという唯一の生物種にも興味は尽きない。
どちらにしろ、動物たちに癒されたら、動物園を出て、ホモ・サピエンスの群れに戻らねばならない。