【映画】「ジュラシック・ワールド(スティーヴン・スピルバーグ製作総指揮)」を観た感想。

「恐竜映画」じゃなく「怪獣映画」。



 本作の主役は単なる「恐竜」ではない。遺伝子操作によって人工的に生み出された「化物(キメラ)」だ。
 両者は似ているようで大きく違う。
 この微妙な違いが、「ジュラシック・パーク」シリーズに重大な質的変異をもたらした。それはシリーズのコンセプトにも関わる根本的変化だった(と僕の目には映った)。

 簡潔に述べれば、対立構造が大きく変容した。
 前作までの主役である「恐竜」も、確かに人間の手によって現代に復活させられたが、その存在自体(遺伝子)は、あくまでも「自然」に属していた。決して人間が生み出したものではない。
 彼ら古代生物が現代文明に生きる我々人類を襲う。それが「ジュラシック・ワールド」の基本構造だ。
 人間側も火器などを用いて応戦するが、恐竜たちの圧倒的な力を前にしては歯が立たず、次々と喰われていく。


 ここでは、

「人間」vs「恐竜」
「現代科学」vs「古代生物」
「人類」vs「自然」

 といった対立構造が明確だった。


 Tレックスの手の付けようのない凶暴性や、ラプトルの想像を超えた知性などは、人間が制御することのできない「自然」が確かに存在する(した)ことを我々に語っている。

 翻って本作の対立構造はどうなっているだろうか。
 遺伝子操作によって人工的に生み出されたキメラは、もはや「恐竜」ではない。「化物」だ。それは自然界に属しない。むしろ、我々人類(科学文明)側の存在だ。
 今作で人類は、自分たち人類が作り出した何者かと戦っている。対立構造は次のようになろう。

「人間」vs「人間」

 本作で生み出されたキメラは所詮、「人間」の代名詞に過ぎない。

 本作の主題は、「自然(古代生物、恐竜)への畏怖」ではなく、「高度な科学力を持つに至った人類の傲慢さ」である。
 この映画で恐怖を感じるべきだとしたら、それは、恐竜という古代生物に対してではなく、人類の底知れない傲慢さに対してである。

 本作は明らかにそのように主張している。

 なので――。
 僕は、叫びたかった。

 違う! 違う! 違う!
 なんか、違いますやん!
 「ジュラシック・パーク」の魅力は、巨大な爬虫類、つまり「恐竜」の恐ろしさにあるんですやん!
 樹木の暗がりから突如として襲いかかってくる恐竜たちにビビるんですやん!
 古代生物が、現代文明にのさばる人間どもを片っ端から喰らっていくトコに興奮するんですやん!
 キメラなんて「化物」を主役に置いたら、それこそ「ゴジラ」と同じ「怪獣映画」になってまいますやん!
 「ジュラシック・パーク」は「怪獣映画」ちゃいますやん!
 「恐竜映画」ですやん!

 ラストにも腑に落ちない「どんでん返し」が用意されていた。
 キメラを倒すために、Tレックスが檻から放たれるのだ。
 Tレックスは何故か脇目もふらず、キメラに襲いかかる。
 キメラによって窮地に追い込まれていた人間たちは、恐竜によって救われることになる。

「人間」vs「人間(キメラ)」

 という対立構造が、Tレックスの登場によって、

「人間」+「恐竜(Tレックス)」vs「人間(キメラ)」

 という構図になった。
 人間と恐竜(自然)が手を組むのだ。


 これはTレックスだけではなく、ラプトルも同様で、本作では登場人物の一人がラプトルをまるで犬か何かのように手懐けることに成功し、人間と「友情で結ばれたラプトル」もキメラとの戦いに参戦する。

 もう、驚きの展開と言っていいだろう。
 恐竜(自然)を人間が簡単に手懐けちゃって、それを「種族も時も超えた友情」とか言っちゃうのだ。

 それはそれで面白い展開ではある。
 実際、キメラ、Tレックス、ラプトルの三つ巴の戦い(人間は物陰に隠れて見守るだけ)を3Dの大画面で見て、大いに楽しんだ。

 しかし一方で、

 へ?

 という違和感に近い驚きがあった。

 あ、一緒に戦っちゃうんだ……。恐竜さんたちはボクら人間の味方なんだ……。

 という、ある意味で裏切られたような感覚……。
 やはり、恐竜(自然)は常に人間(科学文明)に牙を立てる必要があるのではないだろうか?

 キメラが倒された後もTレックスは何故か人間たちを襲わないし、ラプトルも静かに去っていくし、ネタバレになるがキメラを最終的に仕留めたのもTレックスじゃないし……。

 確かに、映像作品としては文句のつけようがなかった。迫力十分で見応えがあった。
 ただ、物語的には不満に近い違和感が残る出来だった。



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