【読書】『鹿の王』(上橋菜穂子著)を読んだ感想――「個」と「全体」の狭間で。

※一部ネタバレを含みます。




 著者の作品は、「守り人」シリーズ(10巻)と『精霊の木』『狐笛のかなた』を読んだことがある。

 正統的な異世界ファンタジーを紡ぎあげる著者の手腕は、「文化人類学者」という、著者のもう一つの職業に依るところが大きい。

 王道ファンタジーでは、架空の国同士の争いが物語の本筋となることが多い。
 戦争は究極のところ領土拡大による単なる強奪行為に過ぎないが、それを正当化するための「大義名分」が巧みに用いられる。その大義名分においては、「宗教」という文化がしばしば担ぎ出される。
 「守り人」シリーズでは、現実世界と宗教(精神)世界を並列して描くことで、大河のような壮大な戦記とファンタジーを両立させていた。
 「宗教」を人びとがどのように扱い、それが戦争とどのような関りを持っているのか。
 フィールドワークの経験もある著者は、それをリアルに描くことができる。

 著者のファンタジーは、神話や寓話から萌芽した物語という点で古今東西の王道ファンタジーと類似しているが、その神話や寓話がおそらく文化人類学の研究の過程で得られたものであるという点が特異だろう。
 トールキンが膨大な書物から神話・寓話を取り出し「指輪物語」という壮大な物語を描いたと言われているのに対し、上橋菜穂子はフィールドワークにおける現地人からの口述での聞き取りや彼らの行動の観察から神話・寓話(宗教文化)を取り出して、自らの執筆に役立てたに違いない。
 だから、衣食住といったディテールの描写は、数多のファンタジー小説のなかでも際立ってリアルだ。

 また、その「リアルなファンタジー世界」の登場人物たちは、著者の人間存在に対する厳しくも温かい眼差しによって、例外なく多様な面(複雑性)を兼ね備えている。すべての人物が単純な善悪に二分されない。
 シンプルな勧善懲悪の物語になっていないところが、作品にいっそうの深みを与えている。

 以上が、上橋菜穂子作品に共通する特徴だ。


 本作では、著者の上記の特徴に加えて、「医療」「生物学」といった要素が付加されているところが新鮮だった。
 「守り人」シリーズと全体のテイストは似ているので、著者のファンが物語に入りこみやすい。と同時に、「医療」「生物学」から派生する技術的・倫理的・哲学的問題が本作のストリーやテーマに深く入り込んでおり、旧来のファンも、本作を通じて新たな気付きを得ることができる。

 この物語では、「社会(国家)」「宗教」「医療(病、生物学)」という3要素が複雑に絡み合っている
 「国の転覆を図る反乱分子」を「体内に入りこんだ病原菌」に例えたり、「感染症に罹患して死亡すること」を「神の裁き」とみなしたり、「占領地域の自国化」を「体内環境の変化」と捉えたり。
 どれを例示しようか迷ってしまうほど、これら3要素は何度も何度も関連して語られる。

 さしあたり、〈火馬の民〉である〈オーファン〉の言葉を引用しよう。物語の本筋は、この引用文を読むだけで容易に思い出せる。

「そうだ。あの犬たちは神の御手に成ったのだ。神は、侵略者のもたらした毒から生き延びた者に、侵略者を殺す力を与えたのだ。
 侵略者の毒に汚されても生き延びよ! さすれば、おまえたちは、以前より強くなる! そう、キンマの神は我らに教えてくださったのだ。――ユカタの大地を侵した者だけを殺す毒を犬の牙に与えて」


 ストーリーを展開させるためのギミックは上記の引用部分に尽きるのだが、著者の本質的な疑問(本作のテーマ)はそこではない。

 「全体」と「個」の狭間における、「生」と「死」。
 それが本作のテーマだ。

 プロローグとエピローグで、子孫を残した瞬間に病死する(出産と同時に特定の病が発現する仕組みを持った)生物が描かれる。
 親は「個」としては死ぬが、子に生を繋ぐことで種「全体」としては生き続ける。
 また、(作中で「病素」と呼ばれる細菌やウイルスが「生物」かどうかは微妙なところだが)宿主を親世代から子世代へと新たにすることで、〈病素〉という生物もまた次の世代へと命をつないでいくことができる。
 さらに、〈病素〉は出産後の宿主を死に至らしめるが、出産まではむしろその宿主の生存に有利に働く。宿主と寄生者(病素)は、「個」としては生存できないが、「全体」として生存できる。

 著者は「あとがき」で、いくつかのエキサイティングな生物学の本に刺激されて本書を書いたと述べている。
 著者の本書における功績は、そういった生物学の「全体と個」に関する知見を、「社会と個人」の関係になぞらえたことだ。
「『人(あるいは生物)の身体は、細菌やらウィルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場でもある』ということ、そして、『それって、社会にも似ているなぁ』」と、著者は「あとがき」で述べている。

 主人公の〈ヴァン〉は、本書のタイトルである「鹿の王」として、自らの命を捨てて、愛しき者たちを守ろうとする。
 ネタバレになるが、「鹿の王」とは、「狼などの捕食者から群れの仲間を逃すため、自らおとりとなって時間稼ぎをする牡鹿」のことである。おとりとなった牡鹿の運命は、死しかない。

 なお、〈ヴァン〉の「愛しき者」が「〈ヴァン〉とは血縁関係のない者たち」だったという点にも、留意すべきだ。
 生物学の知見を単純に物語に流用しているわけではない。あくまで、生物学から得た「全体と個」という関係性を使っているに過ぎない。その関係性を「社会(国家、共同体)と個人」として描くとき、血縁関係(遺伝子の継承)は本質ではない。

 裏返ったときに見た、あの無数の光。か弱く、小さく、しかし、みな、生きるために輝いていた。
 せめぎ合い、負け、ときには勝ち、ときには他者を助け、命を繋いでいく無数の光。

 他者の命が奪われることを見過ごしてよいのは、たすけるすべを持たぬ者だけだ。
 閉じた瞼の闇に、小さな鹿が跳ねるのが見えた気がした。渾身の力をこめて跳ね上がるたびに、命が弾けて光っていた。
(……踊る鹿よ、輝け)


スポンサーリンク




ブログランキング・にほんブログ村へ



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA