【SF】『虐殺器官(伊藤計劃著)』を読んだ感想――人間の良心を操ることは可能か。

 決定論をモチーフにしたと思われるSFアクション。

 人間の意志や自由といったものを考える際にSFは最適な物語形式なのかもしれない。『1984年』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』といった過去の類書とテイストは非常に似ているし、実際それらの影響を著者が大いに受けているであろうことは、それら先行作品に対する言及が本文中に何度か出てくることからも容易に想像がつく。

 本書における決定論のユニークな点は、進化論がその根底にあることだ。
 適者生存の「適者」ならんと、万人が特定の性質へと収斂され、その流れは圧倒的で抗える者はおらず、先祖代々から受け継いだ有形無形の性質が我々の意思を決定している――と本書は語る。

 善悪(利他・利己)も結局は、先祖から受け継いだ性質(遺伝子)が決定しているに過ぎない。
 何もないところから突如として我々の中に善や悪が芽生えるわけではない。
 それらは進化の過程で脳ミソに刻まれたパターンでしかない。
 腐敗した食べ物の臭いを不快に感じるのと同じ原理で、我々は虐殺に対し嫌悪感を覚えるに過ぎない。

 「虐殺は悪いことだからしないでおこう」と我々が意思しているというのは錯覚で、虐殺という行為がホモ・サピエンスの生存上非効率で不合理な行為であったから、それを忌避する方向に我々が進化したに過ぎないのだ。

 このように本書における人間観は徹底的に「機械人形(物質)」的で、それは生物一般についても拡張されている。

 本書が語る近未来では、機械の一部品として生物の細胞や組織が用いられている。電気信号を伝える物質として「生きものの肉」が最も効率的だったからである。人工培養された肉に電子頭脳が電気信号を伝えることで、家事ロボットや戦闘機までもが動く。
(だから、敵の攻撃によって無機質な装甲を剥がされた戦闘機の描写は、生きものの負傷や死の描写と同じくらいにグロテスクなものになっている。)


 さて、「善悪」「利他・利己」といった概念も所詮は進化の結果として獲得された物質的なもの(脳内モジュール)に過ぎないというのは本書の前提条件に過ぎない。
 問題はその切り換えはどのように行われるかだ。

 その切り換えが比較的容易に可能ならば、人類の大量殺戮に倫理的な抵抗を一切覚えない殺人マシーンを大量生産できる。
 主人公が属するアメリカ軍では、脳の外科的手術(といってもナノマシンを注入するだけ)によってそれが部分的に行われている。善悪の判断に関わる特定の脳領域の活動を出撃前に低下させるのである。

 しかし、敵役である「世界中で大量虐殺を主導する謎の男」の手法はもっと進んでいる。SF的だ。
 なんと、特定のパターンの「言葉」を聞かせるだけで、善を悪に切り替えられるというのだ。

「それは脳がその内部にあらかじめ、手持ちの要素を組み合わせて文を生成するしくみを持っていたからに他ならない」
「その生得的な文生成機能が、深層文法だということか」
「遺伝子に刻まれた脳の機能だ。言語を生み出す器官だよ」
 脳のなかにあらかじめ備わった、言語を生み出す器官。
(中略)
「研究を進めるうちわたしには、人間がやりとりすることばの内に潜む、暴力の兆候が具体的に見えるようになったのだよ。(中略)この文法による言葉を長く聴き続けた人間の脳には、ある種の変化が発生する。とある価値判断に関わる脳の機能部位の活動が抑制されるのだ。それが、いわゆる『良心』と呼ばれるものの方向づけを捻じ曲げる。ある特定の傾向へと」
(中略) 
「……卵が先か、鶏が先か」
 ジョン・ポールは微笑み、
「そういうことだ」
 虐殺の起こった地域では、予兆としてその深層文法が語られる。
 では逆に、争いの予兆のない場所で、その文法で会話する機会が増えたら。
 人々が虐殺の文法で会話するようになったら、その地域はどうなるだろうか。
 p215~220

 〈虐殺の文法〉を政治家の演説、新聞、ラジオ、テレビ、その他出版物に紛れ込ませることで、それだけで、人々を虐殺へと向かわせられるというのだ。
 面白いのは、その言葉の内容(意味、シニフィエ)は関係がないという点だ。「文法」というあくまで形式的な側面(シニフィアン)が、こちらもまた脳という物質にダイレクトに影響を与えるとされている。

 つまり、語られる内容の価値判断は関係がないのだから、善悪の定義についての変容を人々に迫るわけではない。この点で、古典的な思想洗脳などとは大いに異なる。
 あくまで、「価値判断に関わる脳の機能部位の活動が抑制」されるに過ぎないのである。

 本書ではこれ以上の説明が見られなかったので、〈虐殺の文法〉のリアリティについて云々できない。
 しかし、言葉を発するだけで人間の脳に物理的な影響を与えることができ、しかもその脳自体も遺伝によって生得的に獲得された物質に過ぎないというのは、極めてユニークな発想だと思う。
 著者の「機械人形」的な人間観が徹底されている。


 この物語の中で唯一、人間の自由意思を肯定的に捉えられそうな要素は、植物人間に陥った母親の生命維持装置を停止させる決定を下した主人公が懊悩する部分だ。
 罪の意識は、自由意思を前提にしないと始まらない。
(脳手術を受けて軍の命令で送り出された戦場で少年兵を殺しまくる点に関して、主人公は罪の意識を感じない。なぜなら、それは彼の自由意思ではないからだ。)
 しかし、亡き母に対する罪の意識さえも、母のライフログ(監視社会の近未来ではすべてが記録されている)を閲覧した主人公が、母の人生における自分の存在など塵のごとく微々たるものだったと知ってしまう終幕に至って、空虚へと変わる。自分の抱いていた懊悩など何の意味もなかったのだ、自分の意思などどうでもよかったのだ、と知る。

 著者のペシミズムは徹底しているように思える。
 病(癌)に苛まれ、意思や倫理ではどうにもならない自分の身体という「物質」と長く対峙してきた著者の、ある地点での結論か。

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