【SF】『屍者の帝国(伊藤計劃×円城塔著)』を読んだ感想――自由意思があると思い込めるなら機械人形でもいんじゃね?

 早世した奇才のSF作家・伊藤計劃の遺稿が本書のプロローグだ。それを大きく膨らませ、芥川賞作家の円城塔が壮大な物語を織り上げた。

 円城が伊藤のテキストを読み込み、知友の遺志を汲み取ろうとしたことは、先日読んだ『虐殺器官』との数多の類似点から容易に推察できるが、結末に向かえば向かうほど内容や描写が観念的で幻想的になっていき、生粋の機械論者であると思われる伊藤から離れていっているように感じた。
 19世紀末・日本の明治期(のパラレルワールド)を舞台にしているとはいえ、ロマンチシズムに傾斜しがちだったかもしれない。演出がいちいち華美だ。

 伊藤本人の筆によるプロローグは、『虐殺器官』と同じくどこまでも乾燥していて機械論的でシンプル。

「正者と死者を分かつものは何かね、ワトソン君」
 と教授が訊いてきたので、わたしは冷静に答えた。
「はい、霊素の有無です」
「そう、霊素の有無。俗に言う魂というやつだ。実験で確認されているところによると、人間は死亡すると生前に比べ体重が0.七五オンス、二十一グラムほど減少する。これがいわゆる、『霊素の重さ』だと考えられている」

 もちろんこの説明は疑似科学に過ぎない(現実にもこういう実験が過去にあったそうだ。「ダンカン・マクドゥーガル」で検索されたい)。

 だが本書で、「魂」は、脳のパターンやモジュールや機能にすら留まらず、死という瞬間に「重さ」を失う「確固とした物質」として捉えられている。
(パソコンの故障を、ソフトウェアプログラムの欠落や誤謬ではなく、ハードウェアの物的な破損にしか認めないようなものだ。)

 そして、魂を失った死体に(疑似霊素〉をインストールすることで、それを〈屍者〉として蘇らせる。要は、ゾンビだ。
 〈屍者〉はインストールされた個別の〈疑似霊素〉のプログラムによってロボットのように生者のために動かさられる。代表的な使用例は〈屍兵〉と呼ばれる戦闘用ゾンビだ。
 世界大戦に向かう時代において〈屍兵〉の重要性は増すばかりで――というのがプロローグで語られる物語の始まり。

 それはともかく、伊藤は『虐殺器官』で、人間の自由意思(魂)は「言葉」によって操ることができると述べていた。
 伊藤のいう「言葉による操作」とは、一般に考えられている洗脳や思想教育といったような概念的で抽象的なものではない。あくまでも言葉が人間の意思(魂)に「物質的に」「直接的に」作用するというものだった。

 「魂は物質(本書のプロローグ)」「言葉は魂を直接的に操作できる(『虐殺器官』)」という伊藤のテキストから読み取れる2つの命題を、円城がなんとか解釈して捻り出した結論が、「言葉もまた物質に過ぎない」という本書のエキセントリックな主張だ。
 死の瞬間に失われる魂=〈霊素〉とは、脳の中の「言葉という物質」に他ならない。

 本書は、『虐殺器官』で実態が曖昧なままにされていた〈虐殺の文法〉を、円城が親切にも説明してくれたものとも言える。

「わたしなら単純にこう呼ぶ。『言葉』と。感染性も、意識への影響力も十分だ」
「言葉は物質化したりしません」
「そうかね」と教授はホワイト・タワーへ目を上げる。「我々が今目にしているのは物質化した情報の姿そのものではないかね」
(中略)
「こいつも」教授は「ジャーンの書」を取り上げながら、「物質化した言葉の一種だ。あらゆる書物と同じくな。それにもう一つつけ加えよう。フランケンシュタインの名は、フランケン地方の石を意味する。フランク族の石でも良いが。ザ・ワンを生み出したヴィクターは本当に人として存在していたと思うかね。彼もまた、歴史の中の人物が多かれ少なかれそうであるように、物質化された情報だったとしたらと考えてみたことは。結局のところ、ザ・ワンを実現したのは、ヴィクターではなく、『ヴィクターの手記』だったはずだ」

 上記の〈ホワイト・タワー〉とは〈解析機関〉と呼ばれる巨大情報処理機構が収容される建物のことだ。つまりは、「言葉(情報)の物質化の象徴」。
 そして、「ジャーンの書」「ヴィクターの手記」とは〈屍者〉の作成方法が記された本で、〈ザ・ワン〉とは史上初めて作製された〈屍者〉、ゾンビたちの始祖だ。

 〈屍者〉にインストールされる〈疑似霊素〉とは、中途半端に解読された「言葉」に過ぎない。「言葉」を失った死者に埋め込むことはできても、本来の〈霊素〉が有する複雑な「言葉」に上書きすることはできない。しかし、「言葉」の解読が完了すれば、生者の魂である〈霊素〉を上書きすることができる。人間を自在に操れる。

 人間が本来有している魂すなわち〈霊素〉も、できそこないのコピーである〈疑似霊素〉も、解読が完了して完璧に複製される新たな人工の〈霊素〉も、結局はただの「言葉」という物質に過ぎない――。これが、伊藤と円城の語る結論である。

 突き詰めれば、アンドロイドがゾンビに変わっただけで、アンドロイドは羊の夢を見るか? ロボットは自由意思を持つか? 我々生身の人間も結局は精巧な機械人形に過ぎないのではないか? といった古典的なSFの命題を踏襲していると言える。
 なぜ無機質なアンドロイドではなく生々しいゾンビという題材を用いてこの命題を扱ったかと言えば、それはもちろん伊藤が不治の病に冒された病床の中で本書のプロローグを書いたからであろう(たぶん)。

 円城によって付け加えられた新奇な設定を挙げるならば、人間の作り出した〈解析機関〉が言葉を操り人間(生者までも)を規定していくという循環構造、「情報が情報を自己生成する」というぶっとんだ設定だと思う。

 ちなみに、円城が伊藤のテイストを取り入れようとした努力は伝わるものの、結局は本書も他の円城作品と同じく極めて思索的で難解なものとなっていた。

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