【読書】『ハツカネズミと人間』スタインベック著

 僕は、これまでの人生で一度も「友人」という存在を手に入れたことがない。これは断言できる。
 その時々で、友人のような存在はいた。しかしそれは、あくまでも「ような存在」だった。彼らとの関係は、集団の中で孤立し、迫害されることへの恐怖によって、かろうじて保たれているに過ぎなかった。事実、集団という枠組みから解放されると、彼らとの関係は即消滅した。外的圧力がなければ、僕は他人と積極的に関わろうとは思わない。
 「友情」という概念を実体験したことのない僕にとって、「友情とは何たるか」という一例を示している本書は、僕の価値観を変えかねない恐怖の一冊でもあった。

 この小説で描かれるのは、二人の成人男性の友情だ。
 だが、二人の男は対等ではない。「あいつのようなアホウとおまえのような小粒でピリッとした男が、いっしょに組んで歩いていると、どうもふしぎな気がするんだ」と脇役に言われるほどだ。
 一方は知的障碍者の大男で、もう一方は頭のキレる小男。二人はアメリカ各地の農場を渡り歩く期間労働者で、小男ジョージの助けがなければ大男レニーは生きていけない。
 知的障碍者のレニーが、自分を助けてくれるジョージに全幅の信頼を寄せ、友情を感じることは何ら不思議ではない。
 問題は、ジョージが、なぜ足手まといでしかないレニーを見捨てないのか、なぜレニーを友人として扱うのか、ということである。

 その答えのヒントは、黒人の馬屋係クルックスにある。彼の存在は、ジョージとレニーの関係の対照として物語の中で扱われているように思う。
 彼の印象的な台詞を抜粋しよう。(なお、小説の舞台は二十世紀初頭のアメリカである。)

 クルックスが静かに言う。「(中略)かりに、だれもいねえとしてみろ。黒人だから、飯場へ行ってトランプ遊びもさせてもらえねえとしてみろ。どんな気がすると思う? ここに閉じこもって、本を読んでなきゃならねえとしたら? (中略)本なんて、つまらねえよ。人間には仲間が必要だ――そばにいる仲間が」クルックスはすすり泣きはじめた。「仲間がだれもいねえと、気が変になっちまう。だれでもかまわねえ、いっしょにいるならそれでいい。だって」と泣く。「だってなあ、あまりさびくなると、病気になっちまうんだよ」

 ……ふむ、これは鬱期の僕である。この箇所を読んで、僕は素直にそう思わざるを得なかった。学校や職場といった集団から解放され、外的圧力のない自由な状態になった時期が、僕にはあった。暗黒のニート期だ。毎日、就職活動もせず部屋に引きこもっていた当時の僕。友人の(ような)存在がなくとも問題なかった。集団の中で浮いたり虐められる心配などないからだ。――と、そう思っていた。
 しかし本当は、誰でもいいから、話し相手が欲しくて堪らなかったのかもしれない。

 各地の農場を渡り歩く期間労働者たち。彼らは根無し草で、一つ所に留まることはない。仕事が終われば、必要最低限の生活雑貨を麻袋に詰め込んで、新たな農場へと流れて行く。独りで。
 物語の中で登場人物の一人が、こう語っている。

 スリムはジョージを見通して、その先へ視線を送った。「仲間と組んで歩く者はそう多くないな」と思いにふける。「どうしてだかわからんがね。たぶん、この世の中の者が、みんなたがいにひとをこわがってるんだろう」
「知り合いといっしょに歩くほうが、よっぽどいいんだがね」とジョージが言う。
(中略)
「あれ(引用者注:レニーのこと)はいいやつだよ」とスリムが言う。「頭がにぶくたって、いいやつはいる。どうもその反対のことがちょいちょいあるようだ。ほんとうに頭のきれる男で、いいやつはめったにいないからな」

 つまり、黒人の馬屋係のクルックスの場面では「人間は完全な孤独に耐えられるほどタフではなく友人が必要である」ということが、そしてスリムの台詞では「人間は相互に不信を抱いており、“いいやつ”でないと友人にはなり難い」ということが語られている。ちなみにスリムの台詞では、「健常者のキレ者は“いいやつ”でないことが多い」ということも語られている。実際、知的障碍者であるレニーは、自身の感情や暴力性を制御できないものの、基本的には純朴で善人な“いいやつ”として度々描写されている。

 だから、ジョージはレニーを見捨てないのだ。
 孤独な期間労働者であるはずのジョージは、レニーという“アホウ”な“いいやつ”によって孤独から救われているのである。

 ジョージとレニーは互いに足りない部分を補い合い、初めて充足した人間として生きられる。

 これが、僕がこの小説の中に見出した「友情」の一つのかたちである。 

 物語の冒頭で、そして末尾においてもリフレインのように繰り返される、二人の掛け合いが印象的である。
 ここではラストシーンにおける二人のやりとりを抜粋しよう。

 ジョージは話しだす。「おれたちみてえなやつら(引用者注:期間労働者)は、家族もねえ。小金をかせいじゃ、きれいさっぱり使ってしまう。どなりつけて気にかけてくれる仲間さえ、この世の中にだれひとりいねえ――」
「だけど、おらたちゃそんなじゃねえ」レニーがしあわせそうに叫ぶ。「さあ、おらたちのこと、話してくれ」
 ジョージはしばらく黙ってから、「だけど、おれたちはそんなじゃねえ」
「だって――」
「だって、おれにはおめえがついてるし――」
「おらにはおめえがついている。おらたちゃ、そうさ、たがいに話しあい世話をしあう友だちどうしなのさ」レニーは勝ち誇ったような叫びをあげた。

 物語の終盤、レニーは殺人を犯す。農場から逃走したレニーのためにジョージがとった行動も、一つの友情の在り方だったのかもしれない。
 物語の序盤、農場で飼われていた年老いた牧羊犬が殺処分される場面がある。労働者の一人に銃殺されるのだ。生産性のない家畜は不要だからだ。その老犬を友のように愛玩していた老掃除夫は、最初こそ殺処分に反対するが、多数意見にねじ伏せられてしまう。そうして事がすべて終わった後、ぽつりと呟くのだ。「自分の手で終わらせてやるべきだった」と。
 これがラストシーンへの暗示となっている。

 死ぬより辛いことが、この世にはいっぱいあらあな。ダチにそんな思いをして欲しいのか俺ァ。いっそのこと殺してやった方がアイツのためだ。

 こんな明確で臭い台詞は、この上質な古典作品には出てこない。
 しかし、僕にはジョージの胸の裡が読めるようだった。

 そんな友情ならば、僕は要らない。
 助けてくれよ!
 助けてやれよ!
 それがダチじゃねえのかよ!

 と思う僕は、まだまだ尻の青い餓鬼なのかもしれない。
 歳を重ねて、いつか本当に友人と呼べる存在ができたなら、もう一度、再読してみようと思う。
 そして友人に訊くのだ。お前がジョージで俺がレニーだったら、ラストでお前は俺をどうする? って。

(※この記事は旧ブログからの移管記事です。2014年春up)

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