【海外文学】『1984年』(ジョージ・オーウェル著)を読んだ感想。

どんな権力も「自己愛」だけは収奪できない。

(長期企画「世界最高の小説【BEST100】を読破する!!!」第2回)

 人間の支配はどこまで可能か。行動だけでなく、個人の内面まで権力は支配することができるのか。
 著者は本作の中で、その可能性を徹底的に追究する。そして、一定の結論を得る。極めて悲観的な結論を。
 主人公は冒頭から行動の逐一を権力によって支配(コントロール)されているが、最終的に彼は、記憶も思想も知性も愛情も、凡そ「人間性」とも呼ぶべきすべてのものを支配される。
 ここにおいて、被支配者は完全に権力と同化する。
 ある色を別の色で塗り潰すのではない。ある色それ自体が、別の色に変わるのだ。そこに強制や抑圧はない。

 この本は全体主義批判という明確な政治的意図のもとに書かれたが、本書で描かれる権力の片鱗は民主主義国家にも十分に存在しているし、そもそも権力は国家のみが占有しているのでもない。
 この本を読んで、つくづく、そう思った。
 権力は至る所に存在するし、僕らが気付かないうちに僕らの内面を支配する。

 二人以上の人間が集まれば、そこには否応なく権力関係が生まれる。
 例えば、子を育てる母親は、ある意味で絶対的な権力者だ。無垢な子どもは真っ白なキャンパスに等しい。そこに何を描くかは彼女次第。
 企業はどうか。僕は、この時期(四月初め)になるとテレビのニュースで頻繁に流れる「入社式」の様子を見て、吐き気を覚える。全員が画一化された服(スーツ)を着て、一斉に勝ちどきを上げたり、社訓を読み上げたり、社歌を歌ったりしている。おえっ。冗談抜きで、気持ち悪い。彼らの中には近い将来、うつ病になったり、過労死するまで働かされたりする者が出てくるだろう。僕の目には、そういった人々は、会社という権力によって自己の内面まで支配されてしまった人々のように映る。入社式の時はあくまで行動を支配されていただけだったかもしれない。しかし、「会社生活」を送る中で、内面すらも徐々に支配されていったのだ。
 国家も会社も母親も、一見すると「保護者」に見えるところが厄介だ。本書の主人公〈ウィンストン〉も支配者である党の内局員に対し好意を抱く。それはSMにも似た、倒錯的な関係だ。

 人間の内面の例として、本書では「記憶」「思想」「知性」「愛情」などが挙げられている。それぞれが、権力(国家)によってどのように支配(コントロール)されていくのかを見ていこう。それを分析することは、僕らが他者という権力に支配されないために何を銘じておくべきか、ということを教えてくれるかもしれない。

 「記憶」は、「情報」によって支配される。本書の例では、大規模な歴史改ざんが徹底して行われる。主人公自身、その改ざん作業を担う末端の公務員だ。

 もし他の人たちが党の強いる虚構を受け容れるなら――あらゆる記録が同じような虚構を述べるなら――その虚構は歴史の中に組み込まれて真実となってしまう。「過去を支配するものは未来まで支配する」と党のスローガンは謳っている。

 現代のマス・メディア(巨大情報媒体)も、「編集」という名の「改ざん」を日々行っている。「どのニュースを取り上げるか」という一点を挙げても、彼らが我々の記憶(の一部)を操作していることは明白な事実だ。とは言え、人間の情報処理能力の限界から考えて、個人が「ナマ」の情報をすべて手に入れることは不可能で、中立公正とは必ずしも呼べない情報機関に依存せざるを得ず、だからこそメディアの「多様性」が叫ばれる。
 同様に、図書館には「包括性」が求められる。図書館は基本的に「編集権」など有していない。原理的に考えれば、彼らは多用な著作物を“すべて”網羅する必要がある(実際にそれを行えるのは、納本制度を有する国立国会図書館だけだが)。無償提供や他館貸出制度によって、万人に情報が開かれていなければならない。
 また、大量の情報が溢れる現代にあっては、情報の検索機能を担う機関が有する権力にも留意する必要がある。複数のメディアや図書館によって情報の多様性が担保されようとも、広漠とした情報の海の中から必要とする情報を見つけ出し、そこに辿り着くことができなければ意味はない。情報はないに等しいのである。大手検索サイトの検索順位が何らの党派性を帯びていないことは周知の事実だが、それはあくまでも各企業の美徳やポリシーによってそうなっているに過ぎない。現に、某国では政府の圧力によって検索順位が恣意的に歪められているという。

 次に、「思想」は「言葉」によって支配される。本書の最もユニークな点はここだ。有形力の行使や情報操作などは、現実の国家も盛んに採用してきた手法だ。しかし、この小説の中の国家は、人々が日常的に用いる「言葉」そのものを変えてしまう。

 「新語法の全般的な目的は思想の範囲を縮小するためだということが分からないのかね? 終局的には思想犯罪も文字通り不可能にしてしまうんだ、そうした思想を表現する言葉が存在しなくなるわけだから。必要なあらゆる概念はたった“一語”によって表現され、その意味は厳格に限定されて、その副次的な意味というのはことごとく抹消されたあげく、忘れられてしまうだろう」
 イングソックとはニュースピークそのものだ。

 巻末に「ニュースピークの諸原理」なる長ったらしい付録が設けられている点にも、著者の「言葉」への特別な思い入れが感じられる。
 ニュースピークは実質的に、新しい「言葉」の創造ではなく、「言葉」の破壊だ。「思想」は、その内容いかんに関わりなく、破壊される。ある命題に対して、人々は賛成することも反対することもできなくなるのだ。
 素晴らしい。
 本書の中で〈プロレ〉と呼ばれる労働者階級は、家畜並みの白痴として、国家から等閑視されている。彼らには思想統制を施す必要はない。なぜなら、白痴は「思想」など有していない(持てない)のだから。思想統制が必要なのは、知的産業に携わる〈党員〉だけだ。彼らは自分で考える能力を有しているからこそ、危険なのだ。その彼らから、「思想」の源泉となる「言葉」を奪う。一億総白痴化だ。
 素晴らしい。
 権力は永遠に安泰だ。

 さて、現実の世界において、「言葉」の破壊に類する事例は見つかるだろうか? 考えてみて欲しい。
 ところで、ここに「KY」という若者言葉がある。「KY」は間違いなく〈ニュースピーク〉の一語だ、と僕は思う。この言葉は、暴力にも似た絶対的な万能性を備えている。それが指す具体的内容は時と場合によって多種多様だろうが、そこには必ず、同調圧力――すなわち、多数派による少数派の抹殺という権力――が存在する。「KY」とされた行為や人そのものの是非が実質的に論じられることはなく、それに先んじて、「KY」とされた行為や人は静かに抹殺されていく。思考中断。死。

 次に、「知性」は「認識」によって支配される。
 いかなる強大な権力も支配できないと考えられるものがある。それが、物理法則や数学的真理などの知性だ。それは本来、人間の認識とは関係なく、別個に存在するものだ。
 国家が重力の存在を否定したとて、決して人間は空を飛べない。それは物理法則に反するからだ。同様に、党の教義に「2+2=5」というものが含まれているとしても、リンゴ2つとリンゴ2つを合わせたら、それはやはりリンゴ4つなのだ。
 だが、本書の中の権力は、こういった知性すらも端的に支配する。
「知性」は逆説的に「認識」によって支配される。

「君は現実とは客観的なもの、外在的なもの、自律的に存在するものだと信じている。君はまた、現実の特性とは自明の理だと信じている。自分には何か見えると思い込むような幻覚に取り憑かれたら、他の人たちも自分と同じように見えるだろうと想定することになる。しかしはっきりいって置くが、ウィンストン、現実というのは外在的なものではないのだよ。現実は人間の、頭の中にだけ存在するものであって、それ以外のところでは見つからないのだ」

 明らかにこのくだりは、認識論や実在論といった形而上学の有名な対立に依拠している。
 だが、その学問上の決着などに彼らは興味がない。権力は端的に、「君の認識に誤謬があるに過ぎない」と主張し、被支配者の「知性」を簒奪しにかかるのである。
 なお、現実との間に明らかな齟齬が生じたとしても、それは〈二重思考〉によって解決される。それは、もはや理屈ではない。

 危険な思想が浮かんで来た時、意識はそのつど空白状態に陥るように心掛けなければならぬ。その過程は、反射的、本能的なものでなければならないのだ。



 「記憶」「思想」「知性」を次々と剥奪されていった主人公に残されていた最後のものが、反射的・本能的なものの最たる例でもある「愛情」だった。これがある限り、本能的な・反射的な(つまり、ある意味で「人間的な」)部分において彼は完全に支配されたことにはならない。 

 突然、彼は恐怖のショックに駆られて飛び上がった。汗がどっと背筋から吹き出して来た。自分が大声で叫んでいるのが聞こえたからである。
「ジューリア! ジューリア! ジューリア、愛しているよ! ジューリア!」
 彼はまさしく党に屈従したが、依然として党を憎悪していた。以前は自分の異端的な思想を屈従という装いの下に隠して来た。今はさらに一歩後退したのである。知的には屈従したわけだが、内なる心だけは侵されまいと決意したのであった。

 ところが、主人公は拷問の過程であっさりと「愛情」すら放棄してしまう。最後の人間性すら支配されてしまうのだ。この場面は、ある意味で爆笑ものだ。

 彼は気狂いのように叫び続けていた。
「ジューリアにやってくれ! ジューリアにやってくれ! 自分じゃない! ジューリアにだ! 彼女をどんな目に合わせても構わない。顔を八つ裂きにしたっていい、骨だけにしたっていい。しかし、俺にじゃない! ジューリアにだ! 自分じゃない!」

 ほんの数ページ前に決心したばかりだろうがよwww

 さて、最後の砦であった「愛情」は、何によって支配されたのだろうか。
 それは「自己愛」によってである。
 やはり誰しも、世界の中心は自分なのだ。

 〈ウィンストン〉が〈ジューリア〉を裏切ったのと同様に、別の独房では〈ジューリア〉も〈ウィンストン〉を裏切っていた。“再教育”が終わって釈放された二人は、ある日、町中で偶然に再会し、言葉を交わす。

「自分じゃなくって、誰か他の人にやってもらいたいと心から願うの。その人がどんなに苦しもうと一向に構やしない。自分のことしか頭にないんだわ」
「自分のことしか頭にないんだ」と彼は鸚鵡返しに言った。
「その後は身代わりにしようとした人に、もう二度と同じような気持ちは持てなくなるの」
「そうだ、前と同じような気持ちは持てない」
 それ以上の話題はもうなさそうに思われた。寒風が二人の薄い作業服に吹き付けて、膚に密着させた。

 愛は「自己犠牲」だという説がある。その意味で、「愛情」なんてものは簡単に支配されてしまう。「自己愛」によって。
 「自己愛」は常に、「自己犠牲(他者への愛)」に勝る。

 この小説のラストは次の一文によって締めくくられる。

 彼は“偉大な兄弟”を愛していた。

 〈偉大な兄弟〉とは党首の通称である。つまり主人公は最終的に、権力(支配者)を愛するに至る。
 だが、ここで見落としてはならない点は、この時点で主人公は完全に権力に支配されているということだ。すなわち、冒頭でも述べたように、「被支配者=支配者」、〈ウィンストン〉=〈偉大な兄弟〉なのである。

 この世に存在する絶対不可侵の存在は「自己愛」だけである、という結末だった。
 はははは。

 はてさて……。
 二冊目に何を読むべきか、幾分逡巡していたら、『1984年』というタイトルに目が留まった。一時期SFにはまっていた時期があり、『星を継ぐもの』や『エンダーのゲーム』『われはロボット』『火星年代記』『夏への扉』『アルジャーノンに花束を』などを片っ端から読んでいた。その過程で本作も読もうとしたことがある。しかし、当時は読了できなかった。こういった政治的あるいは哲学的なものは肌に合わなかったからだ(今もそうだが)。今回、ちょうどいい機会だったので、二冊目に選んだ。
 社会に生きている限り「権力」とは無縁ではいられないと痛感している今、この本を読むと、様々な発見があった。また、「言葉」が持つ力を衰退させないためにも、色々な小説をこれからも読み続けたいと思う。

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