【海外文学】『ハックルベリー=フィンの冒険』(マーク・トウェーン著)を読んだ感想。

圧倒的自由と開放感。

(長期企画「世界最高の小説【BEST100】を読破する!!!」第1回)

 権威から解放される爽快感。
 そのエッセンスを徹底的に濃縮した小説。世界中の少年たち(いや老若男女)が魅了されるのも無理はない。
 小説の冒頭で読者には次のような「警告」がなされる。

 警告
 この物語にテーマを見いだそうとする者は、訴えられるであろう。また、この物語に教訓を見いだそうとする者は、追放されるであろう。そして、この物語にすじがきを見いだそうとする者は、銃殺されるであろう。
 作者の命令によって記す
   兵器部長G・G

 作者は、本書が寓話として読まれることを強く警戒しているように思われる。なぜって、そういった教条的なものをこそ、本書は批判していると思われるからだ。
 よって、本書が声高に叫ぶ「自分のアタマで考えろ!」という主張も、そのまま鵜呑みにしてはならない。本書の主張すら疑ってかかる必要がある(そうしなければ、「『権威に縛られず自由たれ』という権威に縛られる」、というパラドクスに陥る)。
 本書を思索のための一助とし、自らの意見を醸成することは、何ら問題ではないだろう。だが決して、本書を「第二の聖書」のように扱ってはならない。「自分のアタマで考えろ!」と主張する本書についてすら、自分のアタマで考えてみる必要がある。

 そして、「権威からの解放」は、単なる「自由」を意味しない。そこには前述のような意味での「自立・自律」といった概念が要求される。「自分のアタマで考える」ことなしに真の自由はないのだ。
 自分の中に核となる信念を持っていない者が自由を与えられても、途方に暮れるだけだ。農場で飼われている羊を広大な平原に逃がしてやっても、羊は怯えるばかりだろう。どこにも行けない。せいぜい、そこらの草を食む程度だ。彼には目指すべき目的地などないのだから。
 「自由」を手に入れるということは、自分のアタマで考え、その自分の考えで自らを律し(自律)、自分の足で歩いていく(自立)ということと同義だ。
 羅針盤も舵も持たない船が新大陸を発見できるはずもなく、そんな船は海の底に沈むしかない。

 本書の主人公〈ハックルベリー・フィン〉は「権威」に束縛されない。どこまでも「自由」だ。

 例えば、同じ冒険好きの少年でも、〈トム・ソーヤー〉と〈ハック〉は対照的である。
 〈トム・ソーヤー〉の冒険は、本で読んだ冒険談(知識)を自分で実体験してみることに主眼が置かれている。だから彼は、本に書かれている前例や慣わしに執拗にこだわる。
 脱獄を試みる囚人が「スプーン」で地面を掘ったと聞けば、それを忠実に再現しようと、「つるはし」が手に入る場面であったとしても、あえてそれは使わない。何がなんでも「スプーン」を使おうとする。それが「正しいやり方」だからだ。
 一方、〈ハック〉は違う。彼は言う。

 「堕落したやり方だろうとなんだろうと、つるはしがいちばんいいよ。いっとくけど、おいらは堕落だろうとなんだろうとちっとも気にしないからな。黒人だろうと、スイカだろうと、日曜学校の本だろうと、ぬすむとなったら、おいらは方法なんかどうでもいいんだ。うまくいきさえすればいい。そして、えらい人になにいわれようと、これっぽっちも気にしないのさ」

 過去の冒険談の中に出てくる「正しいやり方」にこだわって四苦八苦する〈トム〉。彼の姿は、「権威」に縛られて不合理な行動をとってしまう人々を揶揄したものにさえ映る。考えてみれば、「書物」なんて「権威」の象徴のようなものだ。

 同じように、自分たちをヨーロッパの王侯だと称する二人の詐欺師も、「権威」を皮肉るために作者が登場させた仕掛けに過ぎない。「トラの威を借るキツネ」ではないが、「権威」をむやみやたらと振りかざす者の末路は悲惨の一言に終わる。

 さて、本書で扱われる最大の「権威」は、「聖書」だ。
 当時の聖書解釈においては、「奴隷制度」が是とされていた。「黒人」は「物」であり、「財産権」の対象だ。黒人が所有者の白人から逃げることは許されないし、その黒人の逃亡を助けるということは窃盗と同じ「犯罪」だ。そしてキリスト教世界においては、「罪」は単なる刑罰の対象となるというだけではなく、死後「地獄」に落ちることを意味する。
 それでも〈ハック〉は、自分の信念に従って、友人である黒人奴隷〈ジム〉を北部の自由州へと逃がすことを決意する。もちろん聖書の教えとの間で葛藤はするものの、最終的には聖書(権威)の束縛を振り払い、自らの良心にのみ服する。
 聖書の教えに逆らい地獄に落とされることを恐れた〈ハック〉は、〈ジム〉の所有者である〈ミス=ワトソン〉に〈ジム〉の居どころを教える手紙を一度は、書く。しかし――

 そのうちおいらは、これまでのいかだの旅のことを思い出しはじめた。するとたちまち、ジムの姿が目に浮かんだ。ジムはいつもおいらのそばにいた。昼も、夜も、月が出てるときも、あらしのときも。そうやってふたりで、のんびりと川を下りながら、話をしたり、歌をうたったり、笑ったりしてきたんだ。どういうわけか、おいらはどうしてもジムの欠点を見つけることができなかった。それどころか、いいところばっかり思い出した。(中略)
 たちまちおいらは、いても立ってもいられなくなって、手紙をつかんだ。手がぶるぶるふるえた。ああ、どうしよう。今度こそ、どっちにするかきっぱりきめなきゃならない。おいらは息をとめたまま、ちょっとのあいだ手紙をにらんだ。それから自分に向かってつぶやいた。
「よーし、それならおいらは、地獄に行ってやる。」そして手紙をビリビリッと引きさいた。

 こういうことだ。
 

 権威に縛られている社会への批判と、人間が本来持っている自由(自分で考えられるということ)への賛美。本書はこの二つを鮮やかに描き出した作品だ。



はてさて……。
 今年から始めることとした長期企画「世界最高の小説【BEST100】を読破する!!!」だが、記念すべき第1回目に、どの本を選ぶべきか。大いに悩んだ末、本書を選んだ。
 初めからヘヴィーな文学作品を選んで挫折したくなかった、というのが一点。
 「海外文学」という右も左も分からない世界へ旅立つにあたって、「冒険」というタイトルがぴったりだと思った、というのが一点。
 そしてなにより、本作は、子どもの頃から僕の「お気に入り」の一作だった。『トム=ソーヤーの冒険』の何倍も好きである。
 翻訳で講談社の「青い鳥文庫」版を選定したのも、単純に「青い鳥文庫」シリーズが好きだったからだ。『十五少年漂流記』『宝島』『ロビンソン漂流記』『失われた世界』『海底2万マイル』『タイムマシン』など、僕の中で「青い鳥文庫」は、「冒険」の代名詞でもある。シリーズで統一されている薄青色の装丁を見るだけで、僕の中の冒険心が刺激される。

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