「バンクシー展@大阪南港ATCギャラリー」に男一人で行ってきた。〈前編〉※長文感想


 本展はバンクシー非公認である。つまり本人の許可をとらずに勝手にやっているわけだ。なぜ、そんなことができるのか? もしくは、なぜ、そうするしかないのか?
 理由は、美術の世界におけるバンクシーの特異な立ち位置にある。

1.バンクシーは「天才か反逆者か」。


 「天才か反逆者か」という文言は本展の副題であるが、その評価が定まっていないからこそ、「作家非公認の美術展」などというものが存在する。

 美術界(の圧倒的多数)の評価は、”バンクシーは天才だ”であって、だからこそ彼の作品はオークションで高値で取引されるし、彼の集客力に金のにおいを嗅ぎつけたイベントプロデューサーはバンクシーの個展を開きたがる。

 一方、バンクシー本人は、どれだけ有名になろうと、あくまで自分は「反逆者」だと自認し、体制側に取り込まれないよう、彼らとは常に一定の距離をとり続けようとする。

 僕にはバンクシーが権威主義的な評価に踊らされないよう必死に抗っているように感じる。
 通常ならば、承認欲求の誘惑に負けそうなところだが、バンクシーはそれを得るため体制側に媚びへつらうことなど決してしない。

「パルプフィクション バンクシー」でググると、
ストリートアートをめぐるバンクシーと権力側の闘争に関する
おもしろいエピソードが出てくるはずだ。

2.なぜ、バンクシーは反逆者であろうとするのか。

 バンクシーが常に「反逆者」であろうとするのは、彼が自らを「虐げられた弱者」だと認識しているからに他ならない。
 バンクシーがモチーフとして「ネズミ」を多用するのもそのためだ。


 “謎の覆面アーティスト”バンクシーに関する正確な来歴は、もちろん公表されていないのだが、イングランド南西部の都市ブリストル出身であることは間違いないとされる。
 『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』という本によれば、ブリストルという都市は概ね次のような特徴をもつらしい。
 古くは貿易によって栄えた国際都市である一方、奴隷貿易や移民の流入によって異文化が混在し、貧富の格差も激しい。住人の多くは左派的で、権力に対して草の根的に抵抗しようとする風土を持ち、1980年の「セントポール暴動」など実際にさまざまな事件が起きている。
 経済は低迷を続けるが、異文化に寛容な歴史的土壌もあってサブカルチャー(ポップカルチャー)は非常に盛ん。街中には、グラフィティストリートアートが溢れている。

 この都市出身のストリートアーティスト、ゴーストボーイは次のように説明する。「この街には何かあるんだよ。アンダーグラウンドで、アナーキーな何かが。[…]ここには活動家がたくさんいるし、かなりリベラルな街だ。それがアーティストたちの作品作りに影響を与えていると思うな。みんな体制に歩みを合わせようとしない。ただのアートじゃないんだ」

 また、バンクシーは次のように語っているという。

 スプレーペイントを道端でみながら大きくなった。雑誌とかコンピュータとかでみる前に。

 このような環境のもとで育ったバンクシーが、どのような人々にシンパシーを感じ、どのような集団に帰属意識を持ち、どのような思想や信念を形成していったかは、容易に想像がつくだろう。
 彼が育った土壌自体が反体制的――権力に対して「反逆者」的であったのだ。


 そのような環境で作品を作り始めたこともあって、「反逆者」性はバンクシーの作品とは切っても切り離せない。 
 「反逆者性」を失った瞬間、その作品からバンクシーのアイデンティティは消失する。
 そのことに作家自身も意識的で、だからこそバンクシーは、どれだけ斯界の権威にほめそやされようとも、「反逆者」の立場を譲らない。

 本展の冒頭の作品群は、「今や世界的ブームとなっているバンクシーだけど、実は彼は彼自身のことを社会的弱者――世界から取るに足らないものとして扱われる『ネズミ』のような存在だと自認しているんだよ」、ということを我々に語る。
 これによって本展は、来場者たちにバンクシーへの親近感を抱かせることに成功する。

 日本では若い世代を中心にバンクシーが大流行しているらしいが、反体制的なシンボルに憧れを抱くというのは、いつの時代も変わらない若者の特性なのかもしれない。ラブ&ピース謳っとけばオールおっけー的な?


 ちなみに、僕は30代の中年男だが、負け組底辺の社会的弱者なので、いつまでたっても「反逆者」的なものにどうしたって共感を抱いてしまう。「弱者の異議申し立て」の手段として利用される芸術には、他の芸術よりもいっそうシンパシーを抱かざるを得ない。だからバンクシーも、やっぱ好き。


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3.表現手法からみるバンクシー。

 “謎の覆面アーティスト”バンクシーについて来場者たちにシンパシーを抱かせることに成功した本展は、次に、バンクシーの表現手法を説明していく。


 まずは、彼の制作現場を再現したという実物大のジオラマが現れる。
(正確に言うと、これは、過去にバンクシー本人が別の美術展で再現した自分の制作現場の様子を、忠実に模倣したものらしい。)

 壁や天井はコンクリート打ちっぱなし。どこか倉庫を思わせる、薄暗い部屋。その中央に、フードで顔を隠したバンクシー(を模したマネキン)。
 部屋には、バンクシーが作品制作に使用する道具が雑多に置かれている。


 この部屋に置かれているのは、あくまで「作品制作に使用する道具」であって、「作品そのもの」ではないという点が重要だ。
 具体的には、型紙とスプレー。

 バンクシーが多用する表現手法は、「ステンシル」と呼ばれる。
 日本語では「合羽(カッパ)版」。
 広辞苑によれば、「型紙上の絵の部分を切り抜き、上から刷毛(はけ)で絵具を塗り込む技法」とある。(バンクシーは刷毛は使わず、カラースプレーを使うのだが。)
 子どもの頃に学校の美術の授業で行った「版画」と似たようなものだ。

 部屋の中に置かれているのは、「型紙」であってバンクシーの「作品そのもの」ではない。
 これは非常に重要な事実だ。
 バンクシーの作品は、あくまで、街の中の壁(ストリート)にあるのだ。

 バンクシーが「ステンシル」を多用する理由は、前述したように、彼が「ストリートアート」あるいは「グラフィティ」出身の作家であることに起因する。
(「ストリートアート」と「グラフィティ」の相違については前掲の『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』に詳しいが、ここでは面倒なので、とりあえず「ストリートアート」という語に統一する。)

 なぜ、「ストリートアート」では「ステンシル」を多用することが有利なのか。

 「ストリートアート」はその名の通り、作品発表の場を「ストリート」(街中の外壁)に求めている。

 そこは、誰しもに開かれた公共空間である。
 その通りを行き交う人ならば、見たかろうが見たくなかろうが、とりあえず目に入ってくる。
 それがストリートアートだ。

 その長所は、誰しもが鑑賞できる開放的なアートであること。
 作品は、「美術館」などという閉鎖的な空間に覆い隠されてはいない。
 その作品に関心があって、作品を観るために高い入場料を払って、時間を割いて会場まで訪れることのできる人々だけが、ある意味で「特権的に」見るものではない。(本展が「バンクシー非公認」である一因もこれだ。)

 “その場所”で生活を営む人々の目に、偶発的に飛び込んでくる「ストリートアート」。
 その作品に本当に何かしらの価値があるならば、人々はその作品から啓蒙されずにはいられない。何かを感じ、何かを考えずにはいられない。
 バンクシーは前述のように、形而上的な「美」を可視化することよりも、もっとアクチュアルな社会への問題定義を作品に込めることが多いと思われるので、どちらかというと「風刺画」に近く、作品を観た後は「感じる」というよりも「考える」ことが多くなると思われるが。

 誰しもが触れることのできる開放的なアートであるということは、長所であると同時に短所でもある。
 その作品を見たくない人の目にも、それは映ってしまうのだから。
(もちろん、バンクシーの表現が一種の啓蒙活動だとするならば、それも彼の意図したことだろう。)

 バンクシーの作品を見たくない代表的な人々とは、誰か?
 決まっている。
 権力者だ。
 バンクシーの批判・風刺・揶揄の対象となる人々だ。

 その代表格であるところの国家権力は、”権力の犬”である警官(cop)を使って、ストリートアートを街中から消そうと必死だ。(少なくとも、以前は。)
 コップどもは、「街の景観を損なっている」という大義名分を振りかざし、「反逆者」たちを取り締まろうと日夜、街中を駆けずり回っている。
 彼らの監視の目から逃れるために、ストリートアーティストたちは、短時間に、素早く、作品を完成させる必要がある。

 そこで、「ステンシル」が重用されるというわけだ。
 壁に型紙をあててスプレーを吹き付けるだけで、作品はおおかた完成するのだから、絵筆を使ってゼロから描くより、圧倒的に時間を短縮できる。

 また、グラフィティの世界では、「タグ」と呼ばれるサインを街中の壁に書くことで、「取るに足らないもの」として扱われている自分たちの存在を社会に主張することに重きが置かれている。
 ストリートアートでは、「タグ」の数よりも個々の作品のメッセージ性が重視されるとはいえ、根源は同じなので、やはり似たようなものは残っているのだろう。
 つまり、型紙を使って「同じ絵」をいたるところに書くことが、グラフィティにおける「タグ」と同じ機能を有しているということだ。
 「ステンシル」を用いることで、「同じ絵」を街中に大量に描くことが容易となる。
 “ネズミ”の大量発生は、初期のバンクシーが取るに足らない自分の存在を社会に気づかせるためにやったことなのかもしれない。

CALL ME BANKSY


 もちろん、バンクシーの表現形態は「ステンシル」に限られるものではない。
 が、「ストリートアーティスト」であることは、バンクシーという作家の最も根幹を成す要素なのだから、その関係で「ステンシル」に注目するのは当然のことと言える。

 本展の展示は、“謎の覆面アーティスト”バンクシーを知る上で、非常にオーソドックスな順序をなぞっている。

 ここにきて本展は、やっと、バンクシーの個々の作品を紹介していく。
 ――のだが、長くなったので記事を分けることにする。

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