【読書】『君たちはどう生きるか(吉野源三郎著)』を読んだ感想――それは確かに素晴らしい生き方ですが・・・。
哲学書に限らず良質な読書体験は、「物事のあるべきすがた」を人々に啓示してくれるが、残念ながら、その説諭を体得し実践できる人間は極めて稀だ。
君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでゆかなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵は、――コペル君、やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きてみて、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することができるのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、決していかない。
(中略)
ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、くりかえすことのないただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが、本当の君の思想というものだ。
と、本書の中で、メンター役の〈叔父さん〉も語っている。
「単なる知識」は、人々を「あるべきすがた」へと導く動機付けとしては非常に弱い。
本書の主人公〈コペル君〉も、「友人との約束は守らなければならない」という命題の倫理的正しさは当然のごとく知っていたが、いざその場面にでくわすと自己保身を優先し友を裏切ってしまう。
著者は、物語の中でも、「単なる知識」の実践的無意味性を説いているのだ。
友人を裏切った後、主人公は後悔や自責の念に苛まれ、その苦しみを通じて、二度と友人を裏切らないと固く誓う。
ここに、具体的な体験を通じた倫理的命題(思想)の普遍化がなされる。
すなわち、高尚な思想を知っただけで我々が行動を変えることはなく、実際にその思想に則った(反した)際に得られた圧倒的な幸福感(絶望感)という個々人の具体的な体験が我々のその後の行動を強く規定する、と本書は語る。
思想、哲学、理念、倫理、当為、イデアなど呼び方はなんでもいいが「物事のあるべきすがた」を個々人の経験(感情あるいは快不快)に求める、という著者の姿勢は徹底していて、次のように述べる。
からだに故障ができて、動悸がはげしくなるとか、おなかが痛み出すとかすると、はじめて僕たちは、自分の内臓のことを考え、からだに故障のできたことを知る。からだに痛みを感じたり、苦しくなったりするのは、故障ができたからだけれど、逆に、僕たちがそれに気づくのは、苦痛のおかげなのだ。
(中略)
それによって僕たちは、自分のからだに故障の生じたことを知り、同時にまた、人間のからだが、本来どういう状態にあるのが本当か、そのことをはっきりと知る。
同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捉えることができる。
人間の「あるべきすがた」にないから、我々は不幸を感じる。
主人公が苦痛を感じるのも、「友人との約束を守らない」という行為が、人間の「あるべきすがた」と乖離していたからだ。
これが著者の考えである。
「個々人の具体的経験が当人の倫理的指針の基盤となる」と本書は主張するのであるから、本書は基本的に思想哲学の書としては自己矛盾に陥っていると思われる。
書に学ぶまでもなく、体験から得る喜びや苦痛を通じて、個々人は自己の「あるべきすがた」を知れというのだから。
一方で、だからこそ本書は、あくまでも物語形式を採用しているのだろう。
論理ではなく、読者の感情に訴えかけている。
主人公に感情移入させ、快不快を同調させることで、各章で説かれる命題に「倫理的な」肯定を得ようとする。
もちろん、〈叔父さん〉の語る人間の「あるべきすがた」は、いたって穏当なもので、特に異論もない。しかし、その根拠を「人間の快不快」に求める正当化手続きは、さすがに子ども騙しである気がしないでもない。(児童書であるから当然だが……。)
論拠に哲学書として若干の不服はあるが、この本で語られる内容自体は、児童書にふさわしいヒューマニスティックでリベラルなものだった。
冒頭の池上彰の解説で知ったのだが、著者は岩波少年文庫の設立に尽力し、あの「岩波少年文庫発刊に際して」の執筆者だという。合点がいった。
「ガンバの冒険」「ドリトル先生」「指輪物語」「メアリー・ポピンズ」「長くつ下のピッピ」……。どの物語も本書に通じる精神性があって、僕も大好きなシリーズばかりだ。
同じように、本書も物語として十分に楽しめる。
ただし、「人間のあるべきすがた」を理詰めで説明するわけではないから、 最後に「君たちはどう生きるか」と尋ねられても、「この物語の主人公のようなカッコいい生き方ができたらいいですね」と答えるしかない。理性がある人間ならば万人が服従せざるを得ない、という正義論ではない。