【読書】『ムーミンを読む(冨原眞弓著)』を読んだ感想――ムーミンシリーズの入門的でオーソドックスな評論。

 まずもって、あらすじのまとめ方や原作の引用箇所などが的確だ。
 ムーミン童話を最後に読んだのは随分と昔のことなのに、9冊すべての物語を鮮やかに、そして懐かしく思い出すことができた。
 実家の屋根裏部屋に他のお気に入りの児童文学と一緒に眠っているだろうムーミンの本を、もう一度読み返してみたい、と素直に思えた。

 まずは、9つの物語の内容を一気に振り返る(思い出す)のに最適の本といっていい。

 次に、それが可能になるのは、著者が考える各話の要所が僕を始めとする多くの読者と一致しているからだ。
 読者の多くが幼き日にムーミン童話を読んで得た「何か」を、この本で著者が明確に言語化してくれている。

 本書を読んだ上でムーミンシリーズを僕の中でもう一度整理すると以下のようになる。

「小さなトロールと大きな洪水」→平穏な居場所を求めるロードムービー。
「ムーミン谷の彗星」→脅威を前にして顕になる人間性。
「たのしいムーミン一家」→ムーミン谷の包容力。
「ムーミンパパの思い出」→ムーミン一族のサーガ。
「ムーミン谷の夏まつり」→新しい自分。
「ムーミン谷の冬」→ムーミンの自立。
「ムーミン谷の仲間たち」→人間のさまざまな側面のキャラ化。
「ムーミンパパ海へいく」→ムーミン一家の瓦解と復興。
「ムーミン谷の十一月」→与えられる立場から与える立場へ。





 ①と②は、トーヴェ・ヤンソン(ムーミンシリーズの作者)が経験した第二次世界大戦の影響が明らかに見られる。
 スウェーデンに疎開することで、故郷フィンランドと父親を失ったヤンソン。母親との流浪の旅の末、父と再会し安住の地を見つける。①における〈ムーミン〉そのものである。

 伝統的に死と再生をあらわす洪水は、この物語でも象徴的な役割をはたす。ムーミンたちは、生命をおびやかす大洪水を、ノアの箱舟ならぬヘムルの籐椅子でのりきった。

 凄惨な混沌の時代を乗り越えて、ヤンソンそして〈ムーミン〉は平穏を手に入れる。

 ②における「彗星」も、端的に戦争という脅威の暗喩だろう。

 脅威に対して人々はどのような態度をとるか。
 〈ジャコウネズミ〉のように内省に籠るか、〈天文台の学者〉たちのように分析に明け暮れるばかりで何の行動も起さないか、ムーミン谷の人々のようにひたすら逃げ惑うか、〈ムーミン〉のように敵にも情を寄せるか。
 はたまた、〈スニフ〉が”小さな生きもの”である自分よりさらに小さな〈子ネコ〉を探すため避難所の洞窟から飛び出したように、誰かを守るために勇気を振り絞るか。

③「たのしいムーミン一家」と⑦「ムーミン谷の仲間たち」





 ③では、恐ろしい魔法を操るという〈飛行おに〉でさえ受け容れてしまう〈ムーミン谷〉の包容力が描かれている。

 その中心にいるのは、トーヴェ・ヤンソンの母シグネをモデルにしたと言われる〈ムーミンママ〉である。
 ムーミンシリーズは、シグネとの疎開の旅に着想を得て始まり、シグネの死を契機として終止符が打たれた。この事実から著者は、シグネの生き写しである〈ムーミンママ〉というキャラクターを特に重視し論評を進めている。
 愛情、母性、包容、寛容、包摂――呼び方は何でもいいだろうが、〈ムーミンママ〉あるいはシグネのそれによって、〈ムーミン谷〉あるいはトーヴェは護られているとする。
 読者がムーミン物語を読んでリラックスできるのは、その包容力の温かさに触れられるからである。

 ママのパンケーキと住人たちの歓待にトロールカルルはすっかり気をよくし、めいめいの願いをかなえてやろうという。
(中略)
 トフスラとヴィフスラの番になった。頭をよせあってひそひそと話しあい、自分たちのルビーとおなじくらい大きくてうつくしいルビーを、トロールカルルのために願うことにする。魔法を自在にあやつるトロールカルルだが、自分の願いだけはかなえられない。ならば自分たちが、とトフスラとヴィフスラが申し出る。
(中略)
 ルビーが映しだすものはなにか。「愛」といってもよいし「自信」といってもよい。あの万能とみえるトロールカルルでさえ、トフスラとヴィフスラの共感に救われた。

 なお、上記の〈トロールカルル〉とは日本語版のムーミン童話で〈飛行おに〉と訳されたキャラクターのことである。
 著者は、邦訳本ではなくスウェーデン語の原作を底本とし、より原作に忠実な翻訳・解釈に努めている。

 ③が多様性を尊重し「受け容れる側」の物語だとすれば、⑦は「受け容れられる側」の多様性に焦点を当てた物語だと言っていい。

 ヤンソンは、ひとりひとりの特殊性をけずり落とし、本質だけをとりだすことで、人物寸描集(ポートレイト)あるいは素描集(スケッチ)を完成させた。そのせいか、読者はこれまで以上にフィリフヨンカやホムサやヘムルに、自分自身や周囲のひとびとの姿を重ねたくなる。

 ⑦は他の物語と違って、各短編がそれぞれ独立している。そして各話の主人公は〈ムーミン谷〉に住む変わった住人たちだ。
 それぞれの主人公が、「気難し屋」「神経質」「臆病」「強欲」「無気力」などの困った性質を有しており、〈ムーミン谷〉に住む他の住人との交流により、それらの性質を克服あるいは手なずけることに成功する。
 「社会に包摂された側がどのように変化するか」を描いた物語だと言える。

 とは言え、これらの主人公は、ある「性格」類型のキャラクター化というよりも、すべての人がその時々で有する「気分」を類型化したキャラクターと言った方が適切だと思われる。
 例えば、「悲観的な人」という「性格」の象徴としてキャラクターが作られたのではなく、すべての人が時には感じる「悲しい」という「気分」の象徴としてキャラクターが作られたのだ――そう考えた方が、僕としてはしっくりくる。
「僕はスナフキンな人だからね」と言うよりも、「僕はいまスナフキンな気分なんだ」といった言い回しの方が適切に感じはしないだろうか?
 各話の”ヘンな”主人公に読者が共感するのは、読者が同じような”ヘンな”人だからではなく、そういった性質を自身が一度は気分として経験したことがあるからに過ぎない。

 ③と⑦はムーミン童話の徳性をもっともよく表している作品なので、シリーズをどの1冊から読み始めるべきかと問われたならば、僕はおそらく「③と⑦から」と答えるだろう。


④「ムーミンパパの思い出」と⑤「ムーミン谷の夏まつり」





 ④と⑤は、物語の中に物語があるという二重構造(入れ子構造)を有している点で共通している。
 ④では、〈ムーミンパパ〉が記す回想録が「物語の中の物語」となっている。子どもである〈ムーミン〉に読み聞かせることを前提として書かれるので、虚飾や美化が含まれている。古の冒険譚にワクワクさせられるが、それが100%の真実だとは限らない。
 ⑤では、〈ムーミン一家〉は今は使われていない劇場に移り住む。滑稽なのは、〈ムーミン〉たちは「劇場」という存在を知らず、その建物を単なる大きな家だと認識していることである。舞台上の書割や大道具を見て戸惑う。「開かないドアや途中で途切れている階段を作ったりして、前の住人はいったいどんな人だったのだろう」と。

 ④も⑤も、登場人物たちが「別の自分」と出会う。それは、「美化された昔の自分」であったり「自分でも気づかなかった新しい自分」であったりする。
 そこに、「演じる」=意図的に別の存在になろうとする行為が介在していることがポイントだろう。

 ④と⑤は特に面白かったという記憶がないので、フィクションの中にフィクションがあるという複雑な構造が子どもには難しかったのかもしれない。

⑥「ムーミン谷の冬」

 シリーズ後期の⑥⑧⑨に関しては、一方的に庇護(包容)を受ける幼児向けの「童話」というよりは、徐々に自立し成長していく主人公を描いた「児童文学」といった側面が強くなっていく。




 ⑥は、③と⑦の次に好きな物語だ。
 おなじみの〈ムーミン谷〉の住人たちが冬眠についている冬、一人だけ目が覚めてしまった〈ムーミン〉。真っ白な雪景色の中にポツンとたたずむ〈ムーミン〉。
 ③や⑦であれば、そんな孤独な〈ムーミン〉に誰かが手を差し伸べただろう。が、⑥では基本的にそれがない。
 なぜなら⑥は、〈ムーミン〉がはじめての冬の世界で「孤独のたのしさ」に気付くと同時に、自立心を手にいれる物語だからだ。

 ムーミントロールはこのヘムルがすきになれない。(中略)あまりにおおらかで元気すぎるヘムルに、かえって異質でなじめないものを感じてしまう。自分とろくに口もきいてくれない、あのよそよそしい冬の生きものたちのほうがましだと感じるほどだ。

 季節が常に移りかわるように、晴れの日があれば雨の日もあるように、みんなと楽しく過ごすときもあれば一人の時間を楽しむときがあってもいい。孤独は決して怖ろしいばかりではない。万物には両面がある。

 冬の世界の水先案内人である〈おしゃまさん〉(本書では「トゥティッキ」と直訳されている)は語る。

 ひとは雪が冷たいと思っているけど、雪で小屋をつくると、あたたかくなる。ひとは雪が白いと思っているけど、ときに、バラ色にもなるし青くもなる。どんなものよりやわらかくなることも、石よりもかたくなることもある。なにひとつ、たしかなものはないのよ。

 〈ムーミンママ〉たちの庇護なしに冬をのりこえた〈ムーミン〉。

 トゥティッキは肩をすくめ、「どんなことでも自分でみつけだして、自分ひとりでのりこえなくてはね」と答えたのだった。ムーミントロールもいまは身をもって、トゥティッキの言葉が正しいことを知っている。だから、冬眠からめざめたスノークの女の子が、クロッカスの若芽をガラスのおおいで寒さから守ってやろうとしたとき、ムーミントロールはすこし先輩ぶって答えたのである。「だめだよ。自分でがんばらせてやるのがいちばんさ。ちょっとは苦労したほうが、うまくいくと、ぼくは思うな」と。

 ものごとの両義性を認め、なにかを決めつけることを決してしないヤンソン。その姿勢がシリーズを通して貫かれているからこそ、より幅広い読者を獲得できたのだと思う。
 僕のような孤独な人間が③や⑦のような温かな物語ばかり読まされていたら、逆にその温かさに辟易したかもしれない。「孤独」すら否定しないムーミン童話、ヤンソンの懐の深さよ。


⑧「ムーミンパパ海へいく」と⑨「ムーミン谷の十一月」

 温かな愛情(家族や友人)の対照である「孤独」にもポジティブな面があることを描いた物語が⑥だとすると、家族や友人関係の中にもネガティブな面があることを描いた物語が⑧だ。
 ムーミン童話を書き始める前は風刺画家でもあったヤンソンの、人間社会を見つめる目は基本的に冷徹・中立なのだろう。子ども向けの童話だからポジティブな面を多く反映させてきたが、母シグネの死と前後して、ムーミン童話にもネガティブな面が多く見られるようになってくる。





 ⑧は大人向けの家族小説のような印象を受けた記憶が強烈にある。
 ④でも見られた〈ムーミンパパ〉の夢想家ぶりや父権主義に振り回されて、自分の殻に閉じ籠ってしまう〈ムーミンママ〉。思春期をむかえたのか〈パパ〉や〈ママ〉の庇護がうっとうしく感じられて声をあらげる〈ムーミン〉。
 あの仲のよい温和な一家の姿は、ない。

 「島の生活」「核家族」「家族の危機」、この三つの要素があいまって、閉じられた濃密な空間のなかで、閉じられた濃密な家族と個人の葛藤がくりひろげられる。

 本書でもこう語られている通りだ。これだけ読むととてもムーミン童話の解説だとは思えない。

 一家といっしょに海をわたって島に来た〈ミイ〉は、ずけずけと容赦なくそれぞれのおかしな点を指摘していく。その指摘が当たっていることに内心気付いているからこそ、一家3人の態度はいよいよ硬化していく。
 それぞれがそれぞれの存在意義(アイデンティティ)を追い求めるあまり、逆に自分を見失っていく。

 最後には島の過酷な自然に打ちのめされて、結局はあるがままを受け入れるしかないことに一家は気付く。
 灯のともらなかった灯台にやっと灯がともる。〈ムーミンパパ〉は灯台守の帽子を本来の持ち主に返却し、トレードマークのシルクハットを再び被る。〈ムーミンママ〉は壁に植物の絵を描くことをやめ、島の環境でも育つ植物は何かを考え始める。

 また、初期の作品から何度か登場する〈モラン〉(本書では「モッラ」と訳されている)にも重要な変化が訪れる。
 毎晩のように島の浜辺に会いにきてくれる〈ムーミン〉に対し、ついに心を開いたのだ。

 〈モラン〉に関して本書でおもしろい解釈があったので、備忘録代わりに引用しておく。

 モッラがすべてを凍らせるほど冷たいのは「あのひとがだれも愛さないせいだけれど、だからといって、なにかわるさをしたわけじゃないのよ」。
 モッラが冷たいのは、だれにも愛されないからというより、だれも愛さないからだ、というママの指摘はするどい。(中略)それにしてもママはなぜこともなげに断言したのだろう。ママがモッラにいだくある種の共感はどこからくるのか。だれにも愛されずだれも愛さず、氷のように冷たいモッラは、いわばムーミン谷の太陽のようなムーミンママの反転(ネガ)である。



 そして、最終巻である⑨。
 ⑧であの〈ムーミン一家〉にも問題があることを描いたヤンソンは、次に⑨で、彼らを理想化し彼らを太陽のように崇める人々に鉄槌を下す。

 ⑨の舞台は、⑧で〈ムーミン一家〉が海を渡って遠洋の小島に移住した後の〈ムーミン谷〉だ。
 ムーミンシリーズでありながら、⑨には〈ムーミン一家〉が登場しない。
 一家不在の家に、谷の住人たちが一家を求めて会いにくる。あたかも、寒さに震える人間が太陽のぬくもりを求めて日なたに出てくるように。

 ③や⑦で見たように〈ムーミン一家〉は愛情や包摂の象徴だ。僕ら読者もそのぬくもりに触れようとムーミン童話のページを開く。
 だが、「理想の人間(ムーミン)」など本当は存在しない。それは⑧で徹底的に暴露された。理想と見える〈ムーミン一家〉でさえ影の部分を抱えている。

 〈ムーミン一家〉の家で共同生活を始めた居候たちは、「理想の姿」を求めて一家の真似事を始める。しかし、それは上手くいかない。コーヒーをベランダで飲むという簡単な行為でさえ、彼らがいたときとどこかが違う。彼らがいたときのような「居心地のいい感じ」がしない。
 次第にストレスをため込んだ居候たちはそれぞれに不満を爆発させ、家の中はめちゃくちゃになる。
 そして結局は、理想の誰かを真似するよりも「あるがままの自分」でいることが一番居心地のいいことなんだと気づく。
 みんなで家の掃除をやり終わって、すっきりした気分になって、また自らの生活にそれぞれ戻っていく。「自分なりの幸せ」を得るために。

 また、〈ホムサ・トフト〉の空想が生み出した〈ちびちび虫〉に関する本書の解釈が興味深かった。
 〈ちびちび虫〉を著者はこれまた直訳で〈ヌンムリテス〉と訳しているのだが、というのも、それが〈ムーミントロール〉のアナグラム(綴り換え)になっているからだ。
 著者によれば、〈ムーミントロール〉=〈ちびちび虫〉に共感を抱く〈トフト〉は、母シグネの喪失に直面したトーヴェが自分を投影したものだという。
 シグネ=〈ムーミンママ〉の愛情に庇護されていた昔のトーヴェが〈ムーミントロール〉ならば、それを失った孤独な〈ちびちび虫〉とそれに共感する〈トフト〉はシグネ=〈ムーミンママ〉を失ったトーヴェ=〈ムーミントロール〉だというのだ。
 自らの語りの力で〈ちびちび虫〉の果てない欲求を鎮めることができた〈トフト〉は、自分も〈ムーミンママ〉がいなくてもやっていけることに気づく。むしろ、自分も「与えられる側」から「与える側」になれるんじゃないか。

 うんざりしたり、腹がたったり、がっかりしたりして、ひとりになりたいとき、ムーミンママはこの森にやってきたんだ。ただあてもなくぶらぶらと、はてしなくうす暗い影の中へ、さまよいこんでいった。心の奥になさけない気持ちをかかえて……。それはまったくあたらしいママの姿でしたが、トフトはごく自然にうけいれることができました。そしてふと思いました。なぜママは悲しくなったんだろう、どうすればママをなぐさめられるんだろう。



 本書の中で〈ムーミンママ〉の重要性は一貫して強調されている。
 母シグネの愛情に包まれていたトーヴェが精神的にも独立するまでの自身の人生を反映させた物語がムーミンシリーズ、というわけだ。
 シリーズの一貫性を求めるならば、実に「なるほど」と思う解釈だった。

 もちろんムーミンシリーズの読み方は本書以外にも沢山あるだろうし、そもそも解釈など不要でそのときそのときに触れる部分部分が好きなだけだという読者もいるだろう。ムーミンシリーズの「居心地のよさ」は、他の優れた小説や童話のように細部にこそ宿っているような気もする。
 また、こういった論評を原書より先に読むことは絶対にオススメしない。なぜなら、その論評に読み方を規定されてしまうからだ。あくまで、「ウラ話」や「メイキングストーリー」や「一読者の感想」として読むのが正解だと思う。原書の持つ奥深さをわざわざ狭めることはない。原書を読んだ後ならば、自分の知らなかった知識や他者の解釈を得て原書の奥深さをさらに知れる、という意味でオススメだ。





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