【読書】『羆嵐(吉村昭著)』を読んだ感想――自然と対峙するとはどういうことか。

 2023年はクマによる人的被害が過去最悪に達した、とテレビニュースが騒いでいた。国が統計をとり始めて以降、負傷者数が最多だったという。
 一方、本書で取り上げられるクマ被害は、大正4年に発生し、今でも「日本獣害史上最大の惨事」と言われているらしい。具体的には、1頭の羆(ヒグマ)が「わずか2日間に6人の男女を殺害した」という(いずれも裏表紙の「内容紹介」より)。

 「OSO18」のドキュメンタリー(前記事参照)を見てから、僕は「クマによる人的被害」に不謹慎ながら強い興味を抱いている。
 なぜなら、それは「人間vs自然」の闘いであり、そのギリギリの場面において、人間存在の偉大さや卑小さが如実に現れると思うからだ。

 今は誰もがスマホで簡単に動画を撮影できる時代だ。老人が山中でクマに遭遇し杖1本で撃退した映像が、テレビで流れていた。
 死が目前に迫っていることからくる恐慌と、生への執着によって、撮影者の老人の口からは悲鳴とも威嚇とも言えない奇妙な声が発せられ、仮に当たったとしてもクマに致命傷を負わせられるとは到底思えない細い杖が必死に振り回される。しかし、クマは走り去り、老人は難を逃れる。
 クマを撃退したのは、老人の気迫であって、クマに対する物理的威力ではない。
 すごい。
 生物として見れば、人間は明らかにクマよりもひ弱であるが、その人間がクマを退けることもあるのだ。人間存在の強かさを感じずにはいられない。
 死を目前にした人間のすがたに興奮せずにはいられない。

 ニュースでその動画が流れたら、僕だけでなく、誰もが見ずにはおられないだろう。
 昭和52年に刊行された本書が息長く読まれ続けているのも、ニュース映像に釘付けになるのと同じような心理が人々に働いているからに違いない。

 本書は「記録文学」と呼ばれるジャンルであるらしい。
 あまり読んだことがないジャンルで新鮮だった。あくまで事実が記述されるのだが、その表現は物語的で自己完結している。
 最終的に読者へ提示されるのは文学の普遍的主題である「人間存在」についてであって、現実社会への問題提起や教訓ではなかったように思う。

 事実の記述が基盤であることは、通常のルポタージュと同様だ。
 著名な文学賞だけでなくノンフィクションの分野でも受賞暦のある著者は、体験者が記した一次資料(『獣害史最大の惨劇 苫前羆事件』)を熟読するだけなく、生存者に聞き取り調査まで行っている。

 また、正確に事実を描写しようとすれば、その表現はどうしても抑制的にならざるを得ない。文体は淡白で、過度な修辞は見られなかった。
 事実そのものが生々しくおどろおどろしいので、羆による襲撃の惨状などはそれをそのまま淡々と描くだけで、読者の背筋をゾッとさせられる。
 著者はこのことを十分に意識していると思われる。
 羆を過剰に不気味に描く必要はない。

 むしろ、著者による物語的虚飾が目立つのは、人間側である。
 この作品の主人公は明らかに、羆ではなく、人間だ。

 自然に対する人間存在の「卑小さ」の象徴として村落の人々が描かれ、一方、死への恐怖を克服する人間存在の「偉大さ」の象徴として羆猟師の〈銀四郎〉のすがたが描かれる。
 両者の対比が鮮やかだ。
 あまりに対照的に描かれているので、著者の創作上の作為を感じずにはいられない。

 前半で描かれる村落の人々や警察官たちは、自然(不条理)に屈するしかない弱い人間のすがただ。

 しかし、自然はかれらに大きな代償を強いた。先住者である羆を擁護する立場に立ち、村落の者たちを容赦なく死におとし入れた。それは、村落の者に対して加えられた制裁のようにも思えた。
 男たちは、自分たちのつつましい努力が自然の前に無力であることを感じた。土地を開墾し草囲いの家の中で寒気をしのいできた日々が、結局は無為なものであることを知らされたのだ。

 警察官を含む100人以上の村落の男たちが集まり、猟銃も複数所持していたにも関わらず、ついに彼らは羆を屠ることができない。そればかりか、羆に追われて散りぢりに逃げ去ったり、物音に怯え羆と間違えて仲間を傷つけてしまったりする。
 一次資料にどのような証言があったのかは定かでないが、さすがにここまで村落の人々が弱々しかったとは考えにくい。後半に登場する羆猟師〈銀四郎〉のヒロイック性を強調するための物語的虚飾と考えるのが妥当だろう。

「仏はどうします」
 男の一人が、区長の顔をうかがった。
「あのまま放置して置け。クマの餌として残す」
 区長は、答えた。
 かれは、自分の口からもれた言葉に驚きを感じていた。遺体を放置し、しかもそれを餌と表現したことは、死者に対する冒涜である。


 卑小な存在である人間が自らの保身のために行う行為は、哀れで、ときに滑稽だ。

 物語の後半になってやっと登場する羆猟師の〈銀四郎〉は、徹底して人間存在の「偉大さ」の象徴として描かれる。
 スマホ動画の老人のように、死を目前にした人間は、「火事場の底力」と呼ばれるような思いがけない勇猛な行動をとることがある。
 〈銀四郎〉がヒロイックに描かれ、著者によって盛んに賞賛されるのは、スマホ動画の老人とは違って、死への接近を自ら選択しているからだ。その大いなる覚悟(決断)に、著者は人間存在の美徳を見る。

「あれでも距離が遠すぎるのかね」
 区長は、放尿を終えた銀四郎に顔を向けた。
「遠すぎるさ。もし仕損じたら次のタマをこめる前に襲いかかってきて一撃のもとに叩き殺される。だから、最初の一発で仕とめなければならない。それには、近くで射たないとな。おれは、普通五間(九メートル)ほどの距離で射つが、二間ぐらいで射ったこともある」


 「死」にできるだけ近づかないよう、警官をはじめとする村落の男たちは、大規模な集団となり、複数の猟銃を用い、遠方から羆に向かって連続射撃を行う。しかし、羆に致命傷を負わすことはできない。
 羆を屠るには、羆に逃げられないよう、また、確実に致命傷を負わせられるよう、単独で至近距離まで近づく必要がある。それによって、当然、猟師は「死」へとぐっと近づくことになる。

 「死」の前に自らを投げ出すことによって、逆説的に、人間存在は「死」を克服できる。
 追い詰められたとき、人間が発揮する底力。
 その力を信じ、「死」へと近づくことを覚悟(決意)できる強さ。
 著者はそこに「人間存在の確かな強さ」を見る。

 もちろん、〈銀四郎〉が単なる向こう見ずの馬鹿でないことも表現されている。

 区長は、足をふらつかせながら銀四郎に近づいた。
 羆を見下ろしている銀四郎が、振返った。その顔を眼にしたかれは、再び意識がかすみかけるのを感じた。銀四郎の顔は、死者のそれのように血の気が失われていた。唇は白け、日焼けした顔の皮膚には皺が不気味なほど深くきざまれていた。

 〈銀四郎〉も、他の村落の男たちと同じ、一個の人間である。
 にも関わらず、独りで羆と対峙するという決意ができた。

 その人間存在の強さを、著者は鮮やかに描いた。
 これによって、本書は単なる事実の羅列(ルポタージュ)ではなく「記録文学」となったのだ。



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