【読書】『牛を屠る』佐川光晴著
旧態依然とした屠殺場の生々しい現場を、北海道大卒で元出版社編集者のインテリ著者が活写したノンフィクション。
まず断っておきたいのだが、この作品は、「屠畜会社に体験入社してルポ書いてみました」的なノリの学芸作品ではない。
著者が出版社を辞めた後、屠殺場に勤めることになったのは、「たまたま職安に勧められたから」に過ぎず、著者が執筆活動を始めたのは、屠殺場に十年近くも働いた後である。
本を書くために屠殺場に入ったのではなく、屠殺場での労働の経験があったからこそ本を書くことになったのである。この点は重要だ。
この点に関連して、もう一つ。
本書は、屠殺というテーマで生命倫理を論じた本でもない。
屠殺は屠殺でしかなく、そこに「命」や「死」などといった抽象的概念を、著者はあえて持ち込んでいない。
われわれは「屠殺」と呼んでも、自分たちが牛や豚を殺しているとは思っていなかった。たしかに牛を叩き、喉を刺し、面皮を剥き、足を取り、皮を剥き、内臓を出してはいる。しかしそれは牛や豚を枝肉にするための作業をしているのであって、単に殺すのとはまったく異なる行為なのである。
と、著者は述べている。
であるからして、現代の市場社会の中で大量に屠殺されていく家畜たちの命の重さを考える、などといったような生命倫理の話は、毛ほども出てこない。著者が家畜の命を奪うことについて葛藤し懊悩する場面なんてものも、ほぼない。
つまり、第一線で働く現場の人が生命倫理について云々する話ではないので、そういう期待をもって読むと肩すかしをくらうだろう。
では、本書の主たるテーマは何か。
それは「労働」である。
本書をあえてカテゴライズするならば、「お仕事本」と言っていいと思う。
この本は、「屠殺」という仕事と真摯に向き合い、その中に喜びを見出だし成長していく著者と、同僚の職人たちの話なのである。
牛さんや豚さんの話ではない。
「屠殺」という仕事は昔、被差別部落出身の人たちが多く従事していたとされ、仕事内容とあいまって、社会からの偏見を受けやすい職業であるらしい。実際、結婚も難しいという。
そういった環境の中で、葛藤しつつも、屠殺という仕事にやりがいと誇りを持って働く男たち。
私を突き飛ばして前足を取ると、新井さんはさっきまでとは見違えるような速さで牛を剥き出した。切れ味が悪いままのナイフを力まかせに押し込んで、恐ろしい形相で腕を振り回す。プライドなどという安っぽい言葉を木っ端微塵に吹き飛ばす力業に、私は圧倒された。
体重60Kgそこそこのインテリ青年だった著者は、数年後には80Kgを超える体格を手に入れるまでになり、身体だけでなく、内面も成長する。
著者は語る。
誰でも実際に働いてみればわかるように、仕事は選ぶよりも続けるほうが格段に難しい。そして続けられた理由なら私にも答えられる。屠殺が続けるに値する仕事だと信じられたからだ。ナイフの切れ味は喜びであり、私のからだを通り過ぎて、牛の上に奇跡を残す。
労働とは行為以外のなにものでもなく、共に働く者は、日々の振る舞いによってのみ相手を評価し、自分を証明する。
いつだって人は、与えられた環境の中で、自分なりのこだわりを見つけながら働いていくしかないのだ。
そういう話だ。
それにしても、仕事の中に喜びを見出せるというのは、なんと幸せなことだろうか。
僕にとっては、仕事は苦痛を伴う単純作業でしかない。事務も営業も肉体労働も、僕にとっては一緒だろう。
顧客の笑顔が励みになる? は? 他人の幸福など知ったことではない。
さらに致命的なのは、同僚との仲間意識を抱けないことだろう。汗水流して仕事に励む同僚を見ても、そんな高くもない給料でよくそこまで働けますね、と思ってしまう。
作者のような思いに至れる仕事に出会えたらいいな、と思わずにはいられない。
しかし、おそらく、そんな仕事はどこにもない(あるいは、どこにでもある)。結局、仕事の内容云々ではなく、仕事に向き合う自身の心の持ちようが肝心なのだ。
どんな仕事にも貴賎はない。あるとすれば、愉しんで働ける仕事こそが、貴い。