【読書】『デヴィ・スカルノ回想記 栄光・無念・後悔』ラトナ サリ デヴィ・スカルノ著
無気力で行動力に欠ける負け犬系男子に強烈なビンタを喰らわせ、活を入れる、デヴィ夫人の自叙伝。
「私の精神構造は、一九五九年に日本を出たときのままになっているので、“浦島太郎”の私にはニートだとか、フリーターだとかいう日本の若者の生き方が、どうしても理解できない」と明言されているので、こちらとしてもカルチャーショックに要注意だ。
夫人にとって現代の若者が不可解であるのと同じように、我々にとっても“デヴィ夫人”という存在は大いなる謎であったし、本書で語られている夫人の激動の人生は、我々の理解の範疇を軽く凌駕するものであった。
しかし同時に、本書からは、デヴィ夫人をデヴィ夫人たらしめる強さの源泉を読み取ることもできるのだった。
デヴィ夫人の強さの源泉は、自己に対する絶対的な自信である。揺るぎないプライドである。根拠のないナルシズムとは別物の、確かな自尊心。
それにより、他者の悪口雑言に押しつぶされることなく、首尾一貫した行動をとることができ、人生の成功をつかめたのだ。
もう、この時点で、我々とは異次元の存在である。
我々が持っているのは、大いなる劣等感と、その裏返しとしてのチンケなプライド、それに無根拠のナルシズムだけだ。
他者の陰口が少しでも耳に入ろうものなら、我々の心はポキッと音を立て、容易く折れてしまうだろう。そうして他者に迎合し、行動を変えてしまう。
それでは成功はできない。
他人の批判や攻撃など何のその、猪のように真っ直ぐと猛進し続けることが成功の秘訣なのである。
本書では、「自慢かよっ!」とツッコミをかましたくなる箇所が山のように出てくるが、それがイタさを伴わないのは、その自慢の背後に、根拠に裏付けされた夫人の確固とした自信が見え隠れするからである。
自信に満ち溢れた自慢話は、逆説的に、イタくないのである。
「俺の家って金持ちなんだぜ~」と二代目のボンボンが自慢話をしてイタいのは、「それってお前の功績じゃねえじゃんw」と後ろ指を指すことができ、かつ、その指摘によって、彼が自信を失い、道化になってしまう場合だけである。
「ハイ? 確かに俺は莫大な遺産を親から相続しましたけどォ、会社を維持・発展させてきたのは俺なんですけどォ~?」と、他者の後ろ指を撥ね返すことができたならば、自慢話のイタさは随分と軽減されるのである。
そして、デヴィ夫人の自信・自尊心はスカイツリーよりも高く、そのプライドを築き上げるための行動を実際に夫人はしてきた(苦難にも耐えてきた)のだし、我々はもちろん、そこらの一般人では、夫人の自信を打ち砕くことは不可能に近く、よって、夫人は無敵に近い強さを手に入れたのだ。
夫人の自信の根拠を否定するのは難しい。
夫人は美女として生まれた。それ自体は確かに彼女の功績ではない。だがしかし、それを武器とするという選択をし、他の美女たちから頭一つ抜きん出る努力をし、インドネシアのスカルノ大統領に見初められ、彼が失脚した後も、彼の財産や人脈を足がかりに事業を展開し、最終的にはそれを遥かに上回る富を手に入れ、近年では出演するテレビ番組が軒並み高視聴率であることは、紛れもない事実なのである。
デヴィ夫人は、「あとがき」でこう語っている。
人間には誰にでも必ず、一生に何回もチャンスを与えられるのです。
しかし、それに気づかない人があまりに多いのです。
その人たちとは目標や目的、使命感を持っていない人たちです。
気がついたら、それを掴む!
掴んだら、自分の全ての能力と時間をつぎ込んで、
英知を発揮し、努力して成功を維持する。
成功を掴んだら、今度はそれをいかに維持するか。
維持するほうが、成功を掴むより難しいのです。
その他に感じた瑣末なこと。
・若くして両親と弟(家族)を亡くしたことで、国家(日本)の束縛から真に解放され、だからこそ、大統領失脚後もインターナショナルな人材でいられた。
・スカルノ姓を名乗り続けるわりに、なんだかんだで夫人もやはり女で、恋多し。それが若さの秘訣か。
・なんだかんだで夫人はやはり毒舌家で、他者(インドネシア政権の要人や社交界の知人など)への皮肉や批判も結構多い。この手の強烈な皮肉や批判を、スタンドプレーではなく素でやっているところが、まさにデヴィ夫人。
・この世代に共通して言えることだろうが、戦後の“マイナスからの出発”という意識が強いからか、「失うものなんか元からないわ」という強気の姿勢で、人生の節目節目で常にアグレッシブな選択をしている。