【読書】『生の肯定(町田康著)』を読んだ感想――自意識過剰なオッサンvs放埓なオバハン。

 著者の作品の多くは、フィクションとエッセイが混在しているかのような形態をとっている。
 小説と思って読んだら実寸大の著者が主人公で出てくるし、随筆と思って読んだら破天荒な虚構世界が展開される。
 どちらにしろ面白いことに変わりはないので、いつの頃からか彼の作品に関しては両者を区分しないことにした。

 本書も最初はエッセイ風に始まるものの、物語はブッ飛んだ異界へと突入していく。町田康の妄想ワールド全開だ。

 今作は、執筆行為に関する著者の過剰な自意識を主題としている。
 すなわち、「こっちは徒然なるままに随筆を書き散らかしてきただけ、只それだけなんですけどね、もしかして、ある人が読んだら、コレって自慢話になっちゃってんじゃないの? そう捉えられちゃってんじゃないの? 得意気に自慢話を開陳しちゃってる朕って、実は恥ずかしい輩なんでねーの?」という、被害妄想だ。

 作家は生きる糧を得るために時にはエッセイなるものを書かざるを得ない。しかし町田は、その行為にふいに気恥ずかしさを感じたわけだ。

 本書も本来は「列車に乗って美術館に行く」というだけのストーリーだったのだが、それを書くことが「自慢」という高踏的で厭味ったらしい自慰行為だと他者に捉えられるのではないか、と町田はふと恐怖に襲われたのである。

 ここで著者は、この「被害妄想」が小説の主題になることに気付き、ストーリーそっちのけでその妄想を肥大化させていく。

 この「自意識過剰なオッサン」は著者が十八番とするキャラクターだ(だって著者自身だし)。
 これまでの作品では、自身を過度に貶めることによって「自慢話」を記述することとの均衡を図っていた。
 しかしながら本作では、「自慢話」を全面的に認めようとする。おちゃらけて誤魔化すことはしない。「自慢話」の有用性を烈火のごとく並べたてて、開き直ろうとする。

 そこで出てくるキーワードが「生の肯定」である。

 超然主義とは、その恥ずかしさに極限まで抗う姿勢であるが、その果てにあるのが個人としては死、世界としては滅亡しかないのは余が実地に体験した。
 つまり生の方向へ向かう、ということは、この恥ずかしさを丸ごと認めること、つまり欲望の肯定なのだ。自分のなかに自慢をしたい。他に向かって誇りたい。という気持ちがあるのであれば、これを隠そうとしたり、超然主義で無化しようとするのではなく、丸ごとこれを認める。認めて自慢する。
 余はこれからはそういう生き方をしようと思ったのだ。
(中略)
 余がなにか、ことさら露悪的な私小説の実践のようなことをやろうとしているととる人があるかも知れないが、それは違っており、余の場合、先ほどから生の肯定、欲望の肯定、と言っているように、そうした暗く、否定的なものではなく、もっと明るく、肯定的、爽やかで、軽快で、ポップな、お洒落にenjoyできる、ひとつの生き方、なのである。


 引用していて気付いたのだが、そうか、町田作品は「私小説」(のポジティブver)だったのか。
 単に、自分をモデルにしてしか小説を書けない、あるいはエッセイ書いてる途中にふざけ過ぎてフィクションになっちゃった、というわけではなかったのか。知らなんだ。初耳よ。

 それはともかく、「自慢」に対するオッサンの態度としては、その対象物に対してニヒルな態度をとる「超然主義」か、気恥ずかしさもすべてをひっくるめて人間の自然な欲望を丸ごと受け入れる「生の肯定」しかない。
 本作で、著者であるところの主人公は後者を選択したわけだが、それはあえなく失敗する。

 考えて得られた結論は慄然とするものだった。すなわち、余は自然とかそういったものではなく、隙さえあれば人に自分がいかに凄いかと言っている、他人は自分の自慢を聞くために存在している、と思っているのか、と思うくらいに口を開けば自慢しかしない、単なる自慢親爺だったのか!
(中略)
 いやさ、それを恥ずかしいと思う感受性はさすがにあったのだろう。でも自慢していい気持ちになりたい、という思いがアキレルほど強かった。だから、余ハ自然デアル、などという途方もないコンセプトをひねり出し、生の肯定などと寝とぼけたことを言いながら寝自慢を小便のように垂れ流していたのだ。


 あえなく「生の肯定」に失敗したオッサンであるが、彼のような存在が憎んでも憎みきれない「敵」がいる。
 オバハンだ。
 オバハンである。
 オバハンでございます。

 オッサンとオバハンの違いは、「自慢」をすることに対してそもそも気恥ずかしさを感じるか否か、である。

 オバハンは、そもそも気恥ずかしさを感じない。
 その行為に対して裡なる葛藤を生じない。
 まさにナチュラルに自慢をぷるるんと生み出すわけである。

 オッサンは違う。自慢ひとつするのにもあれやこれやと思い悩む。

 オッサンは思う。自分はこんなに思い煩っているというのに、あのババの、あのあっけらかんとした態度はなんだ。キーッ、くやしい。腹立たしい。

 著者が「放埓なオバハン」の中に見出す醜悪さは凄まじい。
 ありったけの怨嗟、憎悪を文中にブチ込んでいる。

 そう思って沖奈の方を見ると、群衆が私を支持して、まるでそんな質問した自分が馬鹿、みたいな空気になっているのが苦しくて仕方ないらしく、身体が六倍にも膨張して、その結果、着ていたワンピースは裂けて全裸となっていた。その身体の表面は、ところどころ腐って、赤黒い肉が露わになり、そこから血やリンパ液とともにウジ虫や虱がボタボタたれていた。そして不思議なことに一部の裂け目からは大量の竹輪が噴出していた。
 そしてまた髪の毛からは大量のフケが滝のように噴出していた。
 そんな風になって苦しみつつなお、群衆に好かれようとして沖奈は、自分の身体から出てきた竹輪を、腐って溶けて大和芋のようになった手で、「おいしい竹輪をどうぞ」「できたての竹輪をどうぞ」など言いながら手渡している。

 なんで竹輪やねんと笑えたので、この個所を引用してみたわけだが、オバハン(沖奈)に関する描写は初登場時から徹底して醜悪だ。
 壁に漆喰でも塗っているのかと思うような厚化粧。そこに一筋の亀裂が走ることで、〈沖奈〉の本性が顕になっていく。
 オバハンは厚化粧であるから厚顔無恥なのではい。すっぴんからして厚顔無恥なのである。

 上記の引用箇所よりも酷い描写もあるので、「放埓なオバハン」が苦手な方、奴らの他を顧みない迷惑な言動に苦しめられてきた方、は是非本書を読んで少しでも留飲を下げられたい。
 もちろん世の中には「放埓ではない真っ当な淑女」もおられるのであるからして、著者もすべての中年女性が「放埓なオバハン」だと言っているわけではないが、本書では「オッサンvsオバハン」の対立が幼児向け戦隊ヒーローアニメ並みに明確に描かれている。


 オッサンvsオバハンの闘争は、オッサンの完全敗北に終わる。
 結論として自分(著者であるところの主人公)を敗者・弱者として描いたということは、結局のところ、本作もこれまでの町田作品の延長線上にあるに過ぎない。
 まあ、そこがキュートなんだけど。
 地位も名誉も手にしたオッサンが勝者・強者のまま自慢話をしたら、それこそ僕を含めた多くの読者から本能的な反感・嫌悪を食らうであろう。

 著者は最後まで自身を貶めるしかないのかもしれない。
 「生の肯定」への道は果てしない。

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