【読書】『異類婚姻譚(本谷有希子著)』を読んだ感想――結婚相手も結局はただの異類。

 多分に絵画的な作風だった。
 おそらくこれは著者が劇団出身であることと関連が深いのだろう。演劇は、劇中の一場面をまるで絵画のように演出し、観客に鮮烈な印象を与えることによって、主題を語る。
 また、当然のことながら、その一場面は主題の隠喩になっている。

 観客に強烈な印象を残すための演出技法が演劇界においては日進月歩生み出されているのだろうが、シュールレアリズムな場面を作り出すというのもその一つだ。
 主題は過度に誇張され、もはや現実を超越する。
 リアルでは起こりえないことが起こる。
 だからこそ、観客はその場面から強い印象を受ける。そして、その場面にはどんな意味があるのだろうかと考え始める。
 
 著者の演劇は観たことがないが、おそらく本作と同じように現実離れした出来事が起こるのだろう。
 その一場面はおそらく絵画的な演出となっているに違いない。著者が主題から受ける印象をそのままキャンパスに描きつけたような。


 本書には、芥川賞受賞作である表題作を含めて、四つの短編が収められているが、いずれにも超常現象が出てくる。
(「顔が似通ってくる夫婦」「雪のような白い毛を持つ犬に化ける人間」「温かな日常のリビングが突如として独りぼっちの荒野に変わる」「夫が人間ではなく動いて喋る藁人形」)

 その奇抜な設定は、それがストーリーに必要なギミックというよりはむしろ、単純に絵画的な暗喩の描写に過ぎない。
 その場面をそう描くことが重要なのであって、どう展開するかはあまり重要ではない。



 「婚姻」という主題から著者の脳裏に浮かんだのは、「ウロボロスのように雌雄二匹の蛇が互いに相手を尾から喰らっているさま」であったのであり、主人公と夫は互いに蛇となり互いを喰らう。
 喰われない為には離れるしかないが、そうすると自分も喰うことができない。喰うためには、喰われなければならない。
 その行き着く先は、二匹の消滅。
 すなわち、それぞれの「個の消滅」である。

 「顔が似通っていく夫婦」という現象も、二つの人格の同一化に伴う「個の消滅」を描いているにすぎない。

 惰性に身をまかせ一方的に欲望を喰らっているつもりだった主人公は、自身も夫から喰われていることに気付く。自分の人格が夫に乗っ取られつつあることに気付く。
 互いの欲望が極限にまで競合すれば、二人が一人となって欲望を貪り続けるか、または一方が追放されるか、どちらかしかない。
 小便の場所さえ覚えられない厄介な猫が、愛玩動物として一家に受け容れられず、山に放されたように、夫は山に捨てられる。(しかも、男性器を象徴する山芍薬という植物になって。)

 個人が他者を受容する(取り込む)のは、その同一化に伴って得られる快楽が同一化前と比べて増加する場合だけだと本書は語る。
 「婚姻」した以上、「夫婦」である以上、「二人で一人」なのであり、夫と妻の利害は常に一致し、「個」は失われざるを得ない。そうなって初めて快楽は増加する。
 仮に「個」を守ろうとすれば、必要以上に入ってこようとする「他」は弾き出されるしかない。

 本書の「異類婚姻譚」とは、説話の一類型(人間と人間以外のものが結婚するという寓話)のことではなく、人間にとって自分(個)以外はすべて異類(他)であるということだろう。
 好いた人間でさえ所詮は「他」なのであり、自分という「個」は常に「他」に優越する。
 とは言え、両者の利害を完全に一致させようとすれば、「個」は「他」と同一の存在になるしかない。






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