【小説】『むらさきのスカートの女(今村夏子著)』を読んだ感想――被疎外者の共感の行方。
社会から疎外された孤独な人間は、同類を嗅ぎ分ける能力に長けている。
同類を見つけることで、自己の置かれた状況から生ずる不安や焦燥を和らげようとするからである。
つまはじき者は自分だけではないのだと、胸をなでおろしたいのである。
だがここで、孤独人はしばしば次のような過ちを犯す。
”安心を得たいが為だけに利用しているにすぎない同類”に対して特別な好意を抱いてしまう、という誤りだ。
普通に考えて、人間社会から疎外されている人間は、何かしらのそうなる理由があるからそうなっている。
そんな変人と仲良くなるより、”みんな”の輪の中で健やかに生きている普通の人と仲良くなる方が簡単なのは、すぐに理解できるだろう。
過度の同族意識は冷静な判断力を奪い、悲劇を生む。
変人が普通人と仲良くなるのは難しいが、変人が変人と仲良くなるのはもっと難しい。
そして、「主人公にとっての悲劇は、読者にとっての喜劇である」というのは、文学のテッパンである。
主人公の女が執拗に、度を越えて、〈むらさきのスカートの女〉に肩入れする姿は、滑稽以外のなにものでもない。
「生活に必要なものならわたしのボストンバッグに何でも入ってるんだから。食料だって着替えだってお金だってあるし、って言ってもそんなにたくさんあるわけじゃないけど……、まあ、当面の二人の生活に困らないくらいは」
“二人の生活”を夢想していた主人公に訪れる結末は、爆笑ものと言えるだろう。
そうして独り取り残された変人は、新たな〈むらさきのスカートの女〉となって、社会の玩具にされるのである。
もちろん、前の〈むらさきのスカートの女〉がそうであったように、玩具とはいえ社会の側に認知された人間は、もう透明人間のままではいられない。