【読書】『自動起床装置(辺見庸著)』を読んだ感想――合理性の追求により剥奪される人間性。
無意識について我々はそれを制御できない。「私」の支配下にそれはない。
効率性や論理性によっては説明できない事象が「私」の中に、世界の不条理と同じように存在する。
にも関わらず、時々我々はそれを都合のいいように操れると錯覚する。
「眠りの世界ではいろいろなことが起きる。辛くて、狂おしくて、他愛なくて、突飛で、情けなくて……もう、すべてなんて言葉でおおえないほどすべてのことが起きる」
(中略)
「ただね、起きると、眠りの世界を忘れてしまう。(中略)起きているほうが、眠るより大事だと思ってしまう。起きてしごとするために眠りがあると誤解するんだ。眠りを軽視するんだね。……眠りはだから、ときどき仕返しするんだよ」
(中略)
「眠りは眠りとして、起きるのとべつにあるんだぞと、仕返しする。眠らせないという仕返しをしたり、ひどい夢で裏切ったり、寝言をいわせていたずらしたりする」
薄れてはきたけれど、まだはっきりそれとわかる尿のにおいが「仕返し」という言葉に染みつき、ぼくは奇妙に興奮した。
p55,56
本作の主人公は、通信社に設けられた大規模な宿直室で、眠っている社員たちを所定の時間になったら起こすという変わったアルバイトをしている大学生だ。
上述の台詞は先輩アルバイトのもの。
起床時刻の異なる複数の社員が眠っているし、社員たちに寝坊は許されないので、目覚まし時計ではなく、わざわざ「起こし」専門の人員を雇っているのだ。
主人公は、眠りにつく社員たちの寝言や叫びや不眠症や夢遊病や夜尿症といった奇行の数々を次々と目撃していく。
人間が本来内部に有している「体内時計」とは別に、外部に「時間」という客観的な概念を発明したときから、合理性の飽くなき追求が始まった。
本来、人間は、眠くなったら眠るし、目が覚めたときに目覚める存在だった。自然とそうなっていた。
にも関わらず、外部の客観的な「時間」が我々を拘束し始める。そして、それに従うことが合理的だとされる。「〇時間寝れば睡眠時間は十分です」などと専門家がのたまい、我々はそれを妄信する。
合理性の基準と我々が本来(自然に)持っている体内時計との間に著しい齟齬が生じたとき、人々は壊れる。
そんな中、先輩アルバイトは、せめて社員たちを「人間らしく」起こそうと努める。彼の恋人が自分を目覚めさせてくれるときのように、「〇〇さーん」と甘く優しくその名を呼ぶことで。
しかし、あるとき、会社が「自動起床装置」という装置を導入し、「起こし屋」を馘首にするという。「自動起床装置」は静かに、安全に、かつ確実に社員たちを起こすことができるという。
その装置を実際に見る前から、先輩アルバイトはその存在に酷い嫌悪感を示す。
その装置は結局、なんてことのない、時間になったら枕元の風船が膨らむだけのチャチなものだったのだが、その試用期間中に事件は起きて……。
著者は、人間性(理性や合理性の対照としての、自然・動物・生物としての人間)の象徴として「樹木」を頻繁に用いている。単行本の表紙絵にも「樹木」が使われている。絡み合う枝や蔓はカオスの象徴にも見える。
「起きるというのは、この酒のもとになってるピタンガの木の実とか、レンブの果実とかが、木の下で寝ているぼくらのおなかにポンと落ちてくるとか、モチノキの枝に小鳥がいっぱい飛んできて、ピーチクやるとかして生じる感覚だと思うんだ」
p68
「……眠りをいきなりなぎ倒すつもりなんだ。夢ごと切り倒す気だよ。……自動起床装置なんていっても、電動ノコギリみたいなものにちがいないよ。木をバッタバッタ切り倒すチェーンソーだよ。樹心からバッサリだ。……夢が、樹液が飛び散ってしまう」
p79
単行本には表題作の「自動起床装置」の他に、「迷い旅」という短編も収録されている。
こちらは通信社の記者が紛争地の取材に赴く話だ(ちなみに著者は共同通信に記者として勤務経験がある)。
舞台はまったく違うものの、紛争地に投げ込まれマラリアか何かに罹り、混濁した意識の中で主人公が見る景色も、また樹木である。
人間がその理性でもって合理性や論理をどれだけ追求しようと、掴み切れない「何か」――。それは確かに存在するのかもしれない。