【映画】「怒り」李相日監督
被害者になることの偶然性あるいは不条理
底辺のこと見下してると、殺されっぞォ?
以上。それだけの話。
底辺は常に自らへの怒りが身体中で渦巻いているが、その暴発の矛先はしばしば他者に向けられる。それだけの話だった。
が、素晴らしかった。
スタッフ、キャスト共に一流の人材が揃ったからこその奇跡。
この映画(及び原作)のタイトルである「怒り」に関しては、「誰の」「何に対しての」怒りかが曖昧だ、というレビューが散見される。
しかしながら、原作者である吉田修一自身が、雑誌か何かの取材で、ご丁寧に答えを明示している。原文はネット上にも存在するので渉猟して頂くとして、私的な超訳は次の通りだ。
「底辺が抱く、ふがいない自分への怒り」。
これだけ。
この映画で見られるすべての慟哭、絶叫、号泣は、すべてが「弱い自分」に起因する。
気狂いのように声を張り上げるのか、枯れることなく延々と涙を流し続けるのか、それとも他者を破壊することで弱い自分から目を背けるのか――。表現の方法は登場人物によって万別だったが、「怒り」の対象は間違いなく自分自身の弱さだ。
怒りの対象と、表現方法を混同してはならない。
誰かを殺したからといって、この世で一番憎い人間がその人間であるとは限らない。
破壊衝動の矛先が、ダイレクトに怒りの原因に向くとは限らない。
他人を何人殺しまくったって、自分への怒りを取り除くことはできない。
この作品の主要な登場人物は全員、不遇な立場に置かれている。
知的障害、ゲイセクシュアル、沖縄、非正規労働――。
現実の彼らが常に弱者とは限らないが、この作品では彼らは明らかに弱者の象徴として描かれている。
ここで仮にタイトルの「怒り」が社会に対するものだとするならば、すべての人物が社会に何らかの報復を企てていなければならないだろう。
呪詛を吐く程度のことであったとしても、社会に対し何らかのアクションを起こしていなければならない。それは別に負の行動だけではなく、LGBTの権利拡大運動や沖縄の在日米軍基地反対運動でもあっていいだろう。
だが、この作品では誰一人として(真犯人を含めて)社会に対して明確なアクションを起こさない。なぜなら彼らの怒りの対象は、社会ではなく、自分自身だから。
この映画の主題は、社会変革などではなく、特定の社会の中で弱者に位置づけられた人々が自らとどう対峙するか、である。だから舞台は日本でなくても構わない。
社会の中で弱者の立場に位置づけられた人々が抱く、ふがいない自分自身への怒り。
ただ、それだけを丁寧に描いた映画だった。